二月十八日・土曜日


 あの女、絢とやらに会ったのはいつだったろう。
 冬の寒い日のことだったことは覚えている。
 他に覚えていることはない。
 けれど、あの時の自分は覚えている。
 壊れていた。どうしようもなくイカレていた。
 遥は永を見捨てたあの日から化物をつけ回していた。
 理由など一つしかない。
 永の仇を討つために。
 あの化け物を殺すために、遥は生きた。
 そんな時に絢と出会った。
 廃ビル。
 寒く、そして暗かった。夜のことだったと思う。
 とても大事な友を失った地で、遥は壊れたまま、歩いていた。
 海西学園の制服のまま、遥は廃ビルの中をさまよった。
 ――どこ? 永、どこ?
 心の片隅で、失った友を呼ぶ。
 ――殺してやる。アレを、絶対に殺してやる。
 一方で、黒に塗れた殺意を腹に抱えていた。
 ――おかしいな。なんであたし、こんなことしてるの?
 朝は学校に通って、いつも通りだった。
 適当に友達と話して、退屈な授業に出席して、明日は何するとまた友達と会話して。
 ――だけど夜になったら、包丁片手に廃ビル歩いて回って。
 ――何してるんだろ?
 寒さと荒れきった心で顔の筋肉が硬直している。
 おそらく酷い顔をしている。笑みなどない、ましてや眉間に皺も寄っていない、ただの無表情。
 ――こんな刃物で、アレがどうにかできると思ってんの?
 遥は自問自答を繰り返す。
 ――できるわけないのに。
 ――ああ、でも。絶対にアレは殺しておきたいし……。
 遥は壊れた。
 大切な友達であったのに見捨てて、一人逃げた。
 自分すらも、他人すらも、世界すらも疎ましかった。

 カランカラン、と。

 廃ビルの廊下。
 遥は足元に落ちていた空き缶を、たまたま蹴っていた。
 その時だ。
 音に気付いて、暗闇の向こうから誰かの足音が聞こえたのは。
 足音は一人分。リズムよく音が反響しているから間違えがない。
 瞬間、刃を前方に向けて、遥は一目散に走り出した。
 前方で息を呑む声が聞こえた。
 化物はそんな悠長な反応はしない。
 この時点で遥は相手が仇敵と違っているのを知った。
 しかし、どうしてか体は止まらなかった。
 もしかしたら、恨みをぶつけるのは誰でも良かったのかもしれない。
 遥は放心したまま、闇に紛れている者に包丁の刃を振り下ろした。
「――――」
 振るった刃に手ごたえはない。
 避けられたとわかった途端に反転して体勢を立て直す。
「――――!!!」
 誰かの声が聞こえた。
 どうやら自分が襲った人間が仁王立ちして怒っているようだった。
 反撃はしてこない。
 ガミガミとやかましい声が耳の中を反響する。
 やはり相手は人間だった。自分の会いたい生物ではなかった。
「――――!!!」
 まだ怒鳴っている。
「うっさいな……」
 もう興味を失ったので遥は無視して立ち去った。
 そいつは追いかけてこなかった。
 きっとこれが絢とやらの出会いだったのだろう。
 冷静になった今なら思い出せた。
 思い出した所で、何も得るものはないが。







 午前九時前。
 速人は遥との約束を守るべく家を出た。
 今日はただの普通人である速人を、どうにかこうにか化物との死闘で役立たせるという速人にとっては苦い思いのする約束の日だ。
 同時に少しわくわくもしていた。
 一応魔術師(?)である遥が、どのフィクション上のソレとは似ても似つかない自称・魔法使いであり医者でもあるという白い髪・『赤い白衣』・黒の喪服の男、凶月凶(まがづきまがお)の所で鍛えてくれる。
 それはつまり速人にも魔術等の、単純に凄い技術が扱えるようになるかもしれないということだ。
 男子の幼き日々の夢が叶うということに、不謹慎だが少なからず速人は気分を高揚させていた。
 しかし、その興奮の火はすぐに鎮火させられた。
 家を出るなり後ろから付いてくるだけならまだしも、積極的に話し掛けてくる人間によって。
「なあおい。最近めっきり寒くなったな、バカ長男」
「…………」
「地球温暖化ってどうなったんだってウチの課の連中はぼやくけどよ、そりゃお前地球に迷惑かけてる人間が言うセリフじゃないだろ。勝手に環境破壊しといて都合の良い時だけ恩恵渡せってなあオイ。情けねえなあ、若い刑事(デカ)はよ。オレの新米時代は仕事中にぼやいただけで鉄拳が飛んできたってもんなのに」
「……………………うるせえよ」
 その人物とは神社久。
 速人の父親にして、天敵。
 家族でありながら家族のカテゴリには入れてやらないと心に固く誓った人間だ。
 その父が、どうしてか自宅の前で張り込んでいた。
(おかしいだろうが! なんで自分の家の前で仕事服着てスタンバイしてんだよ!)
 心中で思い切り速人は怒鳴ってやる。仕事服とは普通のスーツ、久愛用のコートのことだ。
 その仕事着に身を包んだのなら久は現在、所轄刑事課の一員としての責務を果たしているはずだ。
 だけれど、やっていることは自宅前で息子のストーキング。速人でなくとも盛大に疑念は抱くだろう。
 あまりに奇妙過ぎたので速人は、久が目に映らない振りをしてさっさと通り過ぎた。
 しかしシカトされたはずの久はどうしてか速人の後ろを一定の間隔を空けて歩き始め、挙句の果てに速人が返事をしないというのに喋り続けている。
 すでに町へと出ていて、人目に触れているのだからその独り言は目立ってしょうがなかった。
「そもそも温暖化で冬が温かくなるってのは俗説らしいぞ。この間テレビで言ったがな、実は冬が寒くなるらしい。アレはオレもビビったなオイ。どんくらいかっていうと、さっきウッカリ拳銃落としたことに気付いたぐらいビビったな」
「てめえ警官かよ本当に! 拳銃なんか落とすな!」
 さすがに聞き捨てならなかったので速人は後ろを向いて声を荒げた。
「なんだ聞こえてんじゃねえか。クビをかけたジョークもたまに役に立つなあオイ」
 まったく大声が効いた様子のない久。無愛想な顔のまま冗談を吐かれても判別がしにくいから困る。もしかしたら永の無表情は久の遺伝かもしれない。
「……つうか、何のイタズラなんだよ?」
「刑事がイタズラなんかするかよ。こちとら誠実さしか売りがねえんだぞ」
「今拳銃落としたとか大ボラ吹いた奴が誠実云々語るんじゃねえよ!」
「キャンキャンキャンキャン元気に吠えるなあオイ。町の皆さんが見てんだろ。おー、照れるなあオイ」
「……そりゃあんたの独り言のせいだ」
 さすがに通行人が何事かと立ち止まって注目し始めたので、速人は声のトーンを落として再び歩く。
「オレが結果的に一人で喋ってたことなっただけだろオイ。お前が返事をしねえからだ」
 堂々と尾行を再開しながら久は悪びれずに責任を押し付けてきた。
 速人はもうどうでもよくなり、当てつけのようにため息を吐く。考えは読めないが、久は放っておくしかない。
「お前、今度はどんな危ないことに首を突っ込んでるんだ?」
「……何の事だよ?」
「とぼけんな。木曜に学校サボりやがっただろ。智雨ちゃんが心配しまくってたぞ」
「そうかよ……」
 あまりに速人の心に踏み込んだ確認のような質問と、その根拠に速人はうまい言い訳は用意していない。
「あんたには関係ないだろ。他人なんだから」
 そもそもごまかしとはその相手に後ろ暗いと感じることから発生するので、速人は久にごまかしをすること自体に価値を見出していない。
「じゃあ智雨の嬢ちゃんには心配かけていいと思ってんのか?」
 ピクリと歩行に合わせて揺れている速人の腕が反応する。
 が、
「……あいつこそ他人だろ」
 速人は冷徹に言い切った。
 智雨は今回の件に絡んでいない。そういう意味でなら智雨はもっとも他人である。永は智雨の妹でもなければ家族でもない。
 智雨はあくまで速人の幼馴染なのだから。
「そうかい。ならお前はこれから何をするつもりだ」
 久も気にした風もなく続けた。
 久のほうこそ智雨のことをどうとも思っていないように聞こえた速人は正直に答えた。
「魔術を魔法使いに教えてもらうさ」
「…………」
 背後からの答えはない。絶句するに決まっている。
(あんたには無い力を、俺は身に付けてやるんだよ)
 冷たい優越感に浸りながら、速人は久の言葉を待つ。
 しかし来ない。
 振り返ると、久は立ち止まっていた。
「なんだよ、もう追っかけてこなくていいのか?」
 挑発めいた笑みを浮かべてやる。
 すると、久はわずかに口の端に意地の悪い笑みを浮かべ返していた。
「ああ。オレが後ろから見守ってたのはオレの息子だったんだがな。けど妹を可愛がりすぎるあまりに頭を病んだ子供を、オレは愛した妻に産んでもらった覚えはねえからな。残念、人違いだったなあオイ」
 瞬間、速人の視界が真っ赤に染まった。
「――っ! てめえが母さんを語るんじゃねえよ!」
 馬鹿にされたのはどうでもいい。他人扱いされるのはむしろ歓迎ものだ。
しかし久が死んだ母親を語ることは絶対に許せない。
 息を荒くして詰め寄ろうとしたが、
「はいはい。じゃあな、他人さんよ」
 もうすでに久は踵を返して、この場から立ち去って行こうとしている。
 その背中に、速人は呪詛を吐いた。

「てめえが拳銃で撃ち殺したくせに、偉そうに語ってんじゃねえよ……!」







 イライラ、カリカリと喚く感情を抑えながら速人は凶月診療所の前までやって来た。途中、何度も石を蹴ってストレス解消をしていたのは言うまでもない。もっともそれくらいしかできぬほど、速人は矮小な人間であるとも言える。
(鎌女、じゃなくて遥だっけか? あいつはまだ来てねえな)
 遥より先に辿り着いたようで、速人は中で待っているか悩む。
 念の為診療所を覗きこんでみると、妙な紙が内側からガラスの自動ドアに張り付けてあった。
『本日は受け付けているかもよ?』
「…………患者をバカにしてやがるな、あのクソ医者」
 凶月の趣味全開だった。ハテナの後に熊さんマークが可愛らしく描かれているのが尚、腹が立つ。待合室を覗こうにもガラスの自動ドアは乗用車のスモークガラスのように黒く塗りつぶされている。
 どちらにしろ、こんな変なメッセージを玄関に残しておく輩と、時間潰しだからといって談笑などしたくはないので速人は診療所の前で待とうと、どうしてか開かないガラスの自動ドアの前に腰を降ろしかけた。
 そのときだった。
 本当に、何の前触れもなく。
 診療所の正面の建物。
 その上から、巨大な影が舞い降りたのは。
 ドンッ、と辺りに微弱な震えが走る。速人の立っている地面も軽く揺れた。
「な、なんだ!」
 顔を上げてみると、そこには毛むくじゃらの、『何か』が四足で立っていた。
 それは全身を鞭のような体毛で覆った、おそらく犬。
 毛のせいで輪郭も曖昧にしか視認できないが、なぜかその姿を速人は犬と感じた。
 体は巨大。
 四足で地面を這っているにもかかわらず、化け犬の背中は速人の頭を越えている。
(おいおいもしかしてこいつはあの馬の化物と同類か!?)
 異形の獣。その二匹目が目の前にいる。
 それだけで速人の心は決壊寸前まで緊張した。
 だが、その悠長さが命取りとなる。

「■■■■■■■■■■■■■■!!!」

 声なのか音なのか、どちらとも言えない唸り声を、化け犬は空を仰いで放つ。
「ぐっ!」
 速人は反射的に耳を塞ぎ、ようやく事の重大さを知る。
(とにかく逃げないとやばい!)
 神社速人ではどうにもならない。
 通常の人間の範疇に留まる速人に、化け犬を退治できる力などない。
 耳を押さえながら、走り出す。
 しかし、

「■■■■■■■■■■■■■■!!!」

 巨大な毛の塊の生き物が動いた。
 認識し、速人が四、五歩ほど駆ける。
一歩一歩、それこそ命がけで、全身全霊で。

「■■■■■■■■■■■■■■!!!」

 しかしその短い間で、すでに化け犬は速人のすぐ後ろに迫っていた。
(うそだろオイ! この間は逃げられたじゃねえか!)
 あっという間に死の突貫の距離に踏み込まれた。
 こと戦闘に疎い速人がわからなかったのも無理はない。
 速人が駆けっこをしているのは廃ビルのように高低差の存在する場所ではない。
 単にまっすぐ続いているだけの、普通の道。
 犬と駆け足で人間が勝てないのは子供でも分かる簡単な道理だ。
 ましてや今の速人の相手は、本当に犬かどうかも判別できぬ狂獣。脚力が犬や馬といった平々凡々な生き物と同格である保障はないのだ。
 そして先に駆けだしたのは化物の方。
 このレースで速人が化け犬に勝る要因など何一つなかった。
「――――――――――――――――!!!!」
 もう遅い。接触する。速人が犬にぶつかり、跳ね飛ばされるまで幾ばくもない。
 背中に走るだろうかつてない衝撃に、速人は立ち止まって唇を噛んで耐える準備に入っていた。無駄だと思っていても、そうするしかない。
 速人にできることなど、逃げる以外にはなかったのだから。


 しかし、その衝突の寸前。
 急に犬は方向を変えた。
「な、っ!」
 変えた、などとまるで犬が敢えてそうしたように聞こえるが実際は違う。
 凶月の診療所の方角から超高速で何かが飛び出し、今まさに激突する間際だった犬の鼻っ面にぶち当たったのだ。
 その威力たるやまるで戦車の砲弾のごとく、犬は誰もいない歩行者専用道路の脇へ飛び込み、馬鹿でかい破壊音を立てると同時に砂煙を巻き上げた。
 一瞬かつ突飛な出来事に速人は呆気にとられる。
 そして飛び出してきた何かを見て驚愕する。
「リネール!?」
 鮮血を連想させる真っ赤な髪、真っ赤な目。試験管に溜まった血を匂わせる、黒ずんだ赤いドレスを着こなした少女。
レンド・リネールがいつの間にか速人の目の前にいた。
 奇しくもリネールが立っているそこは、化物に接しようとしていた地点。
(ってことは……あの化物が方向転換したのも……!)
 事態に理解が追いついて速人は息を呑む。
 自分よりも圧倒的に小柄な少女が、自分の倍の体重差はあるだろう化物を吹き飛ばしたのだから無理もない。
「…………すげえ……!」
 自称吸血鬼と主張するだけはあった。そんな空想上の産物であるはずの存在でなければ、今の展開は説明がつかない。自分よりも明らかに年下非力な少女が可能な芸当ではない。
 速人は怯えつつも興奮気味にリネールに駆け寄る。
 そこでようやく彼女の異変を知った。
「ぁ……ぁ……」
 なにかを伝えようとし、しかし意味をなしていない朦朧としたリネールの声。普段よりも数段聞き取りづらい。
 どうしたのかと尋ねる前に、速人は鼻をつまんだ。
「……っ!」
 速人は異臭を感じ取ったのだ。焦げ臭いようで、それでいて腐っていると何故か直感的に判断が下せる、あまりにも不快な臭い。
 原因にはすぐに気付いた。
 リネールの体から、黒い煙が立っている。彼女に近付いた速人はそれを吸ってしまっただけだ。
 しかしこの場合重要なのは煙を吸引したことではなく、リネールがまるで焼け焦げているかのように肉体から黒煙を上げていることである。
「ぁ……」
 異常事態に見舞われているリネールは、小さく呟くと、そのまま地面に倒れこんだ。
「リネール!?」
 すぐに速人はしゃがんで、とりあえずリネールを起こそうとした。
「あっつ!!」
 だがすぐに手を引っ込めた。
 服越しに触れたというのにリネールの体は尋常じゃない温度に上昇していた。それは反射的に触れることを避けてしまうほどに。
 そうしている間にもリネールの異変は続いていく。
 地面に伏したまま、動かない彼女は臭いどころか肉が焼け焦げる音までも立て始める。鉄板に乗せられたステーキのように。
 青白い肌も少しずつ黒ずんでいく。じわりじわりと染みを作っていく。
 体に起きている異変は明らかにリネールの体を蝕んでいる。その証拠にリネールは餌を求める溜め池の鯉のように口をパクパクと動かす。
 弱く、それでいて生き地獄を体現した姿。
(いったいなにがどうなってんだ! どうしてあんなに勢いよく乱入して来たのにいきなりピンチになってんだよ!?)
 速人は焦りつつ必死に思考を巡らせる。
「!」
 そしてすぐに気付き、天を仰いだ。
 頭上には雲一つない青空が広がっている。
 冬という季節柄、周囲の建物の影は伸びに伸びているものの日光が地面まで届いてる部分がある。丁度リネールが立っている場所がそうであるように。
(おいおい! 吸血鬼とは聞いたけど、マジで太陽の下とか歩けないのかよ!)
 半ば聞き流し、今し方信じかけていた事実を、速人はようやく本気で信用した。
 そうでなくては浮世離れした外見も、さきほどの腕力にも説明がつかない。
(なら凶月の診療所まで運べばいいのか!? さすがに建物の中にまで日光は入ってこないだろうけど――)
 解決策は速人にもイメージできたものの、ほとんど焼き魚状態であるリネールには触れることが叶わない。
「……」
 物も言えず、リネールはただ目を開いたまま焼け枯れ果てていく。
「くそ! おい凶月聞こえるか!? お前の大好きなリネールが死にそうだぞ!」
 他にはどうにもできない速人は、焼けくそになってドアが開き放しの診療所に声を投げ入れる。
 しかし、そこで最悪が重なる。
 速人の真横で、バガンッ、と歩道に敷かれたレンガブロックが爆ぜる音がした。
「…………おいおい…………冗談もほどほどにしろよ」
 あまりのことに逆に笑いが込み上げてきた。
 速人が恐怖のあまりに笑ってしまったのは無理もない。
 吹き飛ばされたはずの化物が、起き上がっていたのだから。
 化け犬の体躯は毛で覆われているために、一見無傷であるのが絶望を感じさせる。
 吸血鬼のリネールの攻撃でああなのだから、速人など勝負にすらならないだろう。化物の目には脅威と映りもしない。ただの獲物だ。
(ちくしょう! どうしてここに鎌女、じゃない! 遥がいないんだ! こういうときこそアイツの出番だろ!)
 限りなく己の無力を感じつつも、速人は逃げられない。
 実際に逃げたところで競り負けるのは目に見えている。
(それに……!)
 速人は未だ動かないリネールを見る。
 ここで逃げれば間違いなくリネールが殺される。その事実が速人をこの場に硬直させる。
(二度も助けてくれた女の子を見捨てなんかしたら、目覚めも悪いし永にも顔向けできねえ!)
 直接的、間接的という程度の差はあるが、父親と同じ人殺しの道を歩むことになる。それだけは避けたかった。
 踏み止まる速人に、化け犬は今まさに一歩を踏み出そうとする。


 その額に、いつの間にかメスが刺さっていた。


「『切っても切れない炎(えん)』」
 聞き覚えのある若い男の声。しかし常よりも厳かな雰囲気を漂わせている。
 同時に、化け犬の体が燃え上がる。
「■■■■■■■■■■■■■■!!!」
 今度は威嚇ではない、純粋な悲鳴であると速人は直感した。
 犬の叫びの調子を聞き分けたのではない。
 単純に全身を覆い尽くしていた体毛を、さらに覆い隠す程の真っ赤な炎に包まれて歓喜の雄叫びを上げられる生き物など想像が難し過ぎるから、勝手にそう思っただけだ。
 化け犬は赤く燃え盛りながら、身悶えを起こす。
「ボクのリネちゃんになにをしてくれるのかな、このゴミクズくんはさー」
 一瞬の、それも一気に形勢が入れ替わったので呆然としていた速人は背後の声で自失から回復する。
「凶月……」
「うん、ボクだよー」
 にへら、としながら白髪と『赤い白衣』と黒の喪服を着た優男が立っていた。
「もう何をしてるんだよ速人くん。キミが襲われるのは勝手だけどリネちゃんを巻き込まないでよー。って、こけおろしている間も惜しいからリネちゃんの手当てをしないとねー」
 燃え苦しむ化け犬をあっさりと無視し、凶月は異常な体温で硬直するリネールをひょいとお姫さま抱っこで持ち上げた。
 ただそれだけのことなのに、速人の目には凶月が前人未到の偉業を成し遂げたように映る。
「熱くないのか……?」
 速人を振り返りながら、凶月は平然と笑って返した。
「熱いよ、普通に。今はだいたい百度を上回り始めた辺りだから、普通の人にはリネちゃんを抱え上げられないかなー? まー、リネちゃんへのボクの愛の炎は例えマグマであろうとも越えることはできないけどね」
「そうかよ……」
 後半の戯言はともかく、やはり凶月はどこか異質さを秘めている。これが魔術とやらに携わる人間の常識と、凡人の常識の差なのか速人にはわからない。
「それより……あれ、お前がやったのか?」
 速人は、未だ炎の中でもがき苦しむ毛むくじゃらの化物に視線を移す。
「その通りだけど、今はリネちゃんを診療所の中に連れていくことが先決だよ。そーれっ」
 掛け声と共に、凶月は驚くべきことに瀕死の状態だったリネールを診療所の中へ投げ入れた。
 奥でドスンっ、と重い音がする。
 当然速人は凶月に食ってかかる。
「おい凶月! お前何してるんだ!」
「リネちゃんはあれくらいじゃ死なないよ。それよりもまずいのは日光に当たってしまったことだね」
 対照的に悠然と凶月は構え、リネールが飛び出した際にこじ開けたのだろうガラスドアを無理矢理手で閉めた。
「吸血鬼の贋族(がんぞく)はボク達の世界のフィクション上で出てくる吸血鬼、その弱点をほとんど身に宿していてね。贋族は日光に当たると体中の筋肉が硬直し、贋族特有の色素が暴走して死に至る。どこかの吸血鬼物語のように一瞬で灰になるよりはマシかもしれないけど、動けなくなった状態で体中の肉という肉を焦げついて、腐敗していく様はちょっとむごいよねー」
 凶月は新たにメスを出しながら、手の内でクルクルと回す。
「リネちゃんも自分の体だから知っていたのにねー、なのにどうしてあんな自殺行為をしたかというとだ速人くん。キミを助けるためだってことはわかるよね」
 凶月の細い目が、更に鋭く細くなって速人を射抜く。
 指摘され、速人はどうしてか焦った。
「いや……わかるけど……太陽の下に居る限り体が動かなくなって筋肉が腐っていくって…………どうしてリネールは、」
「キミを助けたかって? それは彼女が優しいからだよ。良かったねー、この弱虫。リネちゃんが優しくなかったらキミなんかとっとと死んでたよ」
「…………っ」
 正論に聞こえる暴論であったが、速人にとっては何一つ言い返すことができない。リネールが乱入してくれなければ、今こうして凶月と言葉を交わせていない。
 凶月は視線を速人から外し、診療所と反対側に移した。
「けどー、一番許せないのはキミかな? ていうか、いつまで燃えてるの?」

「■■■■■■■■■■■■■■!!!」

 唸りながら化物は、炎の中、四本の足で立ち上がって見せた。
 全身に火が回っている極限状態にありながら、ふらつきながらも立ち上がってみせた。やはり目の前の獣は、速人の常識の範囲外の生物なのだろうと確信できる。
 しかし、目の前の医者は何も恐れず口を動かし続ける。
「熱いかい? 熱いだろうね、でもボクの炎からは逃れられないよ。ボクの魔術は『奇形』でね。すべてが変なんだ。例えばその炎、『切っても切れない炎(えん)』。それは水の中に落ちようと酸素がない真空の場所に行こうとも絶対に消えないんだ。ボクが絶対に殺してやりたい獲物にしか使わないんだけど、これは特別サービスだ。よかったねー、キミの火葬は決定したよ」
 凶月は『赤い白衣』の下から、新しいメスを取り出す。一見、変哲さはない刃物である。
 それがヒュッ、と風切り音を立てて凶月の手から、化物めがけて飛んでいき、
 化け犬に絡みつく炎の中に飛び込む。
 瞬間、炎は倍の量に増え、巨大な火柱が上がる。

「■■■■■■■■■■■■■■!!!」

 化け犬は苦しみ、咆哮をあげる。
 今度は身をよじろうともしない。おそらくはもう抵抗するだけの気力と体力がないのだ。炎は凶月の言う通り、不自然な火の回り方を始めた上に、収まる勢いがない。
 速人は、一歩も動けなかった。
(あの女が……全然殺せなかった化物を…………こいつは、こうも簡単に…………)
 今後、遥の復讐はどうなってしまうのだろうと少々場違いな思いを抱きつつ、
 速人の目の前で、化け犬は倒れた。
 そして、炎に包まれたまま、二度と動かなくなった。







 正午。
 遥は街を歩いていた。
 休日ということで、今日は私服に、例の黒いキャスケットを被っていた。
 これが遥の戦闘時における服装なのである。
 だが遥の心は、臨戦時のときのように張り詰めていなかった。
(あー、どうしよう。あいつに何を教えればいいんだろ?)
 それどころか遥は悩んでいた。
 なにに、と問われれば勿論神社速人に。
 アレの扱い方に悩んでいた。
 ぶっちゃけると、速人を連れて化物の探索をする気がなかった。
 ただの人間である速人を死地に行かせる気はなかった。
 もっともそれは無力な人間だから、という理由ではない。
 自分の友の神社永の兄だから。
(現金だな、あたしって)
 正体を知ってから、多少優しくする気になった、本当に雀の涙程度だが。自分の邪魔をするなら死んでくれていい。
(殺す気がある? ない?)
 わからない。自分がわからない。
(ああもう……なんでこんなことになったんだろ?)
 あの男の名字を知ってから危険を遠ざけるために遥は突き放したつもりだった。
 だけれど、なんだかよくわからない執念で付きまとわれている。
(ていうか、あたしって魔術のことなんか教えられないのよね)
 遥の中にある『鎌』を出す魔術は『心(しん)影(えい)』という。
 しかしその『心影』は凶月に原理などを教わったため、遥のみが知っていることなど何もない。
(そもそも鎌だって偶然出せただけで、これ以外は出せないってのに……)
 グーとパーの形を交互に作りながら、遥は眉根を寄せた。
 凶月曰く、遥が鎌を出す魔術の名は『心(しん)影(えい)』。
 心影というのは使用者のイメージや心を、そのまま反映させた武具を作り出す魔術のことである。魔術の中では高等な部類には入るらしく、扱うには特別な才能がいるらしい。心影で出現させたものは付加属性も自分で設定ができる。
 ぶっちゃけた言い方をすれば、『何でも貫く槍』を想って『心影』で作れば、そんな槍が出来上がってしまう魔術であるらしい。
 聞いた限りでは最強というか卑怯臭い魔術だが、遥の心影には欠点がある。
 凶月は「ちゃんとした魔術発露の『場』も無しに作れる武器なんて大したことナイナイ。君の鎌なんて、君の側を離れたら消える程度の代物だよ」と語っていたのだ。
 つまり、遥の鎌は『素人にしては上出来だが、プロの目から見れば欠陥品』ということである。
 事実、遥の鎌には欠点がある。
 遥から五メートル以内にしか存在できない。そのため、鎌を投げて攻撃すること、鎌を作って誰かに渡すこと、などスタンドアローンのような扱い方は一切できない。
 おまけに、遥の心影ではもっと戦闘に適した剣、槍、矛、弓矢、銃などは一切出すことができない。
 凶月曰く、『魔術師を名乗るには貧弱すぎる魔術レパートリー』であり、さらには『唯一完成している魔術もただの鎌が出せるだけの微妙な力』と評されている。
(凶器を自由自在に出現させられる通り魔ってレベルよね……しょぼ……)
 遥は物騒かつ浮世離れした落ち込み方をする。
 しかし、それでもまったくの素人が心影を扱えること自体が奇跡だったらしく、初対面時に凶月は遥が鎌を出せたことに大いに驚いていた。
 遥が心影を扱うことに特別な才能を持ち合わせていたことに、凶月は驚愕したのだ。
 心影を扱う上で、特別な才能とは強い、とある一つの感情を持つ事らしい。
 それを語る凶月の顔は、実に愉快気だった。
「心が無ければ心影は始まらない。キミだって、何かを『刈ってやりたい』と願っているから、鎌なんて武器が出せるようになったんでしょ? さしずめ、そのお相手はキミを酷い目に合わせた化物くんかな。心の影、とはよく言ったものなんだよ。心影は使用者の願望を簡単に浮き上がらせてしまうからね」
 全てを見透かしたような言が頭に来たので、凶月を一発殴ろうとしたら避けられたのは余談だ。
(つまりは、心影を教えようにも本人に特性がなかったらできないってことなのよね……ああ、もうどうしたもんかな……? やっぱ置いてって、一人であの化物探しに行こうかな?)
 結局遥は最初の葛藤に戻ってきた。速人の熱意に負けた過去の自分が恨めしい。
 そのときポケットの携帯電話が着信音を響かせた。
 背面ディスプレイを見ると、昨日番号交換をした、件(くだん)の速人だった。
「……はい、もしもし」
 一瞬無視しようかと思ったけれど、結局電話に出た。
『は、遥か?』
 どうしてか緊張気味の声がする。
「あたしの携帯に、あたし以外の人間が出るかっての」
『いやお前の友達が出るかもしれないだろ』
(兄妹揃って、どうして変なところに気を回すのよ……)
 遥は心の中でため息をついた。
「んで、何の用? もうすぐ診療所に着くんだけど」
『凶月があの化物を殺しちまったんだ』
 ピクリと、遥の指が動く。
 心臓の鼓動が早まった。
 息が静かに鳴っている。
「――ほんとなの?」
 頭の中がホワイトアウトしかけた遥は、なんとかそれだけを訊いた。
『見た目はこの間の馬とは違って、なんかモジャモジャと毛が生えた変なやつだ。だから別の化物って可能性も』
「ううん。それ、たぶん当たりよ」
『え?』
「今日教えるつもりだったんだけど、あたしは化物を追い続けてる。その過程で何種類にも遭遇してるの。最初に遭ったのは毛むくじゃらのデカイ犬、二回目は犬っぽいデカイ犬、三回目は一回目と同じ、四回目はこの間で、あんたも見た馬みたいなやつだったわね。姿は違うけど、多分全部同じ。四回目は三回目と同じ技使ってきたから間違えない。姿は違っても全部あたしの仇なわけ」
『……じゃあ、お前の仇はもう……』
「うん、そうね。仇討ち終了」
 あっさりと、遥は言い切った。
 自分でも内心驚くほどに。
「というわけで、今日の予定は全てキャンセルね。あたしはこの後その辺をブラブラしていくから、あんたも適当に過ごしなさい」
『え、ちょ、ちょっと待てっ』
「待たない。あたし、今ちょっと一人になりたくなったから」
 遥は電源ボタンを押して、通話を切った。
 嘘は言っていない。
 遥は本当に一人になりたかったのだ。
(信じないわよ)
 何故なら、かつてないほどに暗い気持ちに落ちていっているから。
 あの永の肉親と言うのなら、なおさら速人には見せたくなかった。
 まるで、永に対して醜い本性を見せている気分になるから。
『刈る』
 刈ってやる。自分の存在を賭してでも。
 それが凶月から指摘された遥の本心であり、心の影であり、本性である。
 殺意ではない、ただの復讐心、憎悪。
 憎い、だから殺してやる。
 遥にとり憑いているのは殺意ではない、ただの憎しみ。
 だから遥は諦めない。
(あたしが、絶対に永を奪ったあの化物を殺してやるんだ!)
 遥は、一人駆け始めた。





「遥! おい遥!?」
 凶月診療所、地下入院施設の前の廊下。
 瀕死のリネールをベッドまで搬送し、凶月が治療を終えるまで待つことになった速人は粗方の事情を説明するために遥に電話をかけた。
しかし遥はまるで遥らしからぬことを言い捨てて、電話を切った。
(仇討ちが終わった? そんなのあいつの性格らしくない……ってことはまだ化物の捜索に戻ったってことに……)
 出会った間もないが、遥の仇討ちにかける思いは重々理解していた速人は即座に遥が思い立った行動を考え当ててみせた。
(……なにができるかわかんねえが、とにかく遥を探すか)
 無論遥のことが気にかかったというのもあるが、実の妹との関係性が確認できていないというのが速人の本音であった。
 速人は即座に駆け出した。
 あくまで永(いもうと)のために。
 その盲目的な思いが命取りとなることを、速人は知らない。





「あーあー、行っちゃったかー」
 リネールを治療していたはずの凶月は、丸イスの一つに座りながら扉越しに速人の様子を観察していた。
 視覚的には不可能であっても、見えない相手の動向を探る術を凶月は知っている。
 気(き)による身体強化術、『武術(ぶじゅつ)』。
 慣れない分野の魔術ではあったが、魔法使いの端くれである凶月にとっては造作もないことであった。
「さて、これで遥くんの暴走に拍車がかかり、速人くんはそれを追う。ふふっ、楽しいなー」
 凶月はケラケラと笑う。
 心底面白くてしょうがないのだ。
 まるで面白いように少年と少女が、自分の思い描いていた『最も愉快なように』動いてくれる。テレビゲームの出来レースのような愉悦さを感じてしまう。
 自身は一連の事件に直接は関係ないが、大体の顛末、そして全ての因果関係は知っているのだから、楽しすぎてしょうがない。
「そうだねー、仇は討たないとねー遥くん。
 妹さんは大事だよねー速人くん。
 でもさー、キミら馬鹿過ぎない? 
 魔獣なんてものが普通に闊歩してるわけないじゃない?
 疑問持てよって感じだよ。まー、無理はないかもだけど。
 仇さえ討てれば全て野となれ山となれの自分本位な遥くん。
 妹のことになると他の全てが目に映らなくなる速人くん。
 こんな二人じゃ一生を終えても考えが至らないよねー。
 普通、あんな危ない獣は誰かが保有してるって。野放しになってたら普通狩りにくる奴らがいるよ。『人外反抗(レジスタンス)』か『西班牙異端(スペインいたん)審問会(しんもんかい)』の奴らがさー。
 それが狩りに来ない、ましてや放置されて自由に闊歩している獣が人目につかないなんて状況がキミら以外に発生しないなんてことがあるわけないだろ?
 まったく無知蒙昧というより、単純に観察力の欠如かな? 日本の教育はどうなっているやら。あー、ボクの愛する低年齢の子供が心配だー。別に性的な意味ではないけれど、と一応の釘を刺しておこう」
 自らが燃やした獣を思い出し、凶月は笑う。
 あの毛の化物の死体は貯蔵庫に保管して、後々玩具にする予定だ。
 本来の持ち主の反感を買うだろうが、そっちは遥がどうにかしてくれるだろうと、凶月は算段をつける。
「だから、今はキミをどうにかしないといけないよねー。リネちゃん?」
 凶月はそこでようやく。
 ようやく、自身の体を腕で貫いている背後のリネールに視線を移した。
「先生……やっぱり魔獣と……関係があるんですか?」
 凶月の背後に立つリネールは先程の太陽光に晒されたダメージはなく、爛れていた皮膚も痕を残さず消えている。
 リネールは吸血鬼の贋族(がんぞく)である。
 贋族は陽の光が当たる場所であるならば、生来無敵の吸血鬼である。瀕死の重傷でさえも、日光の届かぬ場所に入れば即座に消えてしまう。
 限定的な状況では弱い反面、自身を縛る弱点がない場所では異常に強くなってしまうのが吸血鬼の贋族だ。
 太陽さえなければ異常な自然治癒力を抱えているリネールは、凶月の手など借りなくとも助かっていたのだ。
 なのに、リネールはこの狭い部屋まで敢えて運ばれた。
 何故ならば、ここでなら誰にも迷惑をかけずに凶月を殺せるから。心配してくれた速人を巻き込まずに済むから。
 リネールは、犠牲を凶月一人だけに抑えるためにわざわざ凶月に連れられて入院部屋へと運ばれたのだ
「やれやれ、リネちゃんはボクのお姫様抱っこじゃ気にいらなかったー?」
「ふざけないで……ください……わたしは先生自体が……大嫌いです」
 身の内で燃え続ける敵意の炎を、必死に抑えながらリネールは尋ねる。
「それより……質問に答えて下さい……遥さんに……速人さんに……なにをけしかけたんですか?」
「ははっ、質問が変わってなくないかなー? ボクは直接遥くんにちょっかいをかけた覚えは無いよ? それにボクがそんなことをする理由がわからないなー?」
「あなたは……楽しいというだけで……一個の生態系を滅ぼす人です」
「あれー、リネちゃん? ボクと闘う気―?」
「違います……殺す気です」
「ふふふふふー、はっはっはっはー! 笑っちゃうよ、おかしすぎるよリネちゃん! ボクを殺せないことはリネちゃんが一番知ってるはずでしょー!」
 凶月の言う通り、リネールは凶月を殺せていない。
 リネールは凶月を刺している腕に力を込める。
 ズブリ、と肉を断つ感触はある。
 これまで何度もこの男で味わってきた手ごたえで、誤るはずもない。
 凶月は致命傷を負っている、はずだ。
 けれども、凶月は血の一滴も零さない。
 きちんと肉を裂いているのに。心の臓を貫いているのに。
 凶月は平然と笑っている。
(やっぱり……わたしじゃ……)
 リネールは人間が知っている吸血鬼の弱点をほとんど抱えている。
 胸を杭で貫かれると死ぬ。
 十字架を見ると体が震える。
 にんにくを食べると全身に重大な疾患が回る。
 太陽の光を浴びると全身が硬直かつ焼け焦げて死に至る。
 しかしそれら吸血鬼としての弱点を加えられなければリネールは不死身、不老の吸血鬼だ。
 それが吸血鬼の贋族。
 弱点が現存する吸血鬼の種類の中、最多だが持つ力もまた強大である。
 リネールとは別の吸血鬼の贋族は、その身一つで軍隊の一個師団などものともせずに、人間を大虐殺してみせたほどである。
 けれども、リネールの前にいる男は別の力で死を逃れ続ける男である。
 リネールはもう三年は凶月を殺そうと画策している。
 脳、心臓、人体の急所をこれまで何度も潰してきた。
 が、現実としてこの男を殺せた試しは無い。
 吸血鬼の自分をもってしても、凶月凶(まがづきまがお)は生き続けている。
『殺せない、殺してはいけない魔法使い』。
 それが魔術師の世界で得た凶月凶の、世界で最も卑しく、そして醜い称号である。
「ボクはリネちゃんが大好きだから喧嘩はしたくないんだけどなー」
 凶月はニコリと、一見友好的な笑みを浮かべる。
 しかしリネールは折れず、首を振った。
「私はもうあなたに弄ばれる人間を見たくない。
 だからいつまでも図に乗るな、人間」
「おっ、真面目に喋り始めたねー! いいよいいよ! 殺せるものならやってみせなよ! 無理だけどねー! 残念でしたー!」
 ケタケタと壊れた笑い人形と化した凶月に不穏な気配を感じたリネールはもう一本の腕を凶月に突き入れる。同時に凶月を貫いていた手を、風穴の場所まで引き戻す。
「おや?」
 凶月が声を漏らすその間、リネールは凶月の肉体の穴に両の手をかける。

 そのまま強引に凶月の肉体を、縦に裂いた。

「…………やっぱり」
 リネールは縦断され、床に転がる凶月の二つの体を見やる。
 そこには何もなかった。
 本来ならば裂かれた時点で鮮血が吹き出し、辺り一面は血の海に沈んでいなくてはならない。人間の体が割れたのならば、そうでなくてはらない。
 ならばこの、中に暗闇しか広がっていなく臓器も何も入っていない凶月の体は、人間ではないということになる。
「さーてー、ボクはどうやったら死ぬのかなー?」
 それぞれの体の目が、下からリネールを睨んだ。
 出来の悪い、悪趣味な喜劇を見ているかのようだったが、事実凶月の体は半分になっても動いていた。
「先生を殺す度、いつも思います。どうして先生の体は暗闇が広がっているだけで、何も入っていないんですか?」
「前にも教えたはずだけどねー。どうしてボクの体がこうなっているのかさー」
「それが先生の、魔法使いとしての有様だから、ですか?」
「おー、それは覚えてたんだねー。ボクは『奇形(きけい)』の魔法使いだから、けっこうこの体が気に入ってるんだー」
 半分ずつになった口が動きをシンクロさせて会話をしている。初見であれば大層驚いていただろうが、見慣れているリネールではただただ煩わしいだけだ。
「あ、そうそう。ボクって舐められるとカチンとくるタイプだから予め言っておくとさー」
 それまで、淀みなく楽しげに喋っていた凶月の顔が変わる。

「調子に乗らないでよ小娘ちゃん。逆らった罰として、手足バラして一週間の檻行き決定だ」

 凶月の顔にあるのは、悪意。
 虫かごに入れておいたカブトムシが逃げようとした、だから殺虫剤をかけて殺した。
 親に叱られてイライラしていたので、蟻の巣に水を入れて苦しむ様を嘲笑してやる。
 子供じみた悪意の究極系と言っていい悪魔の顔を、凶月はしていた。
「…………!」
 相手は半ば死人のような体(てい)だ。体は裂け、立ち上がることもままならず、さきほどから足を動かしているがカツカツと床を蹴っているだけの結果に終わっている。
 であるのに。
 誰がどう見ても凶月より優位に立っているように思われたリネールが、気圧されて一歩下がった。
「ボクはキミを気に入っているんだ。キミの容姿は実に愛らしいよ、うん。正直ずっと標本にしたいくらいだ。だからこそ、自らの体質を顧みずに速人くんを助けようとして惨めに太陽の下で這いつくばっていたキミを、ボクは助けてあげようとしたのにさ。ああ、なんて愚かしいんだリネちゃん。薔薇姫の名が泣いてるよ?」
 凶月の悪意の顔は、かつてリネールにこれ以上ない災いをもたらした。
 凶月凶は、単なる興味本位で吸血鬼の贋族を滅ぼそうとしたのだ。
 そして、それは八割方が成就し、リネールは友も家族も、凶月の手によって失った。
 実体験からリネールは、凶月の悪意を恐れる。
「……あなたこそ、わたしを甘く見るな。わたしはずっとあなたが殺したくて仕方がないのだから」
 しかしリネールは踏み止まった。
 もしここで自分が折れれば、また自分と同じ運命を遥と速人に背負わせると理解していた。
 凶月の思い通りにはさせない。
 その一念が、リネールの背中を押す。

「あっそ。仕方ないなー、軽く捻ってあげるよ」

 この日のリネールの行動は、しかし全くの無為に終わる。
 何故なら、すでに二人の内一人が危機に晒され、終わった後だったから。




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