並び語られる話の裏であり
並び語られる話の表である
これは、鎌を持った少女のおはなし。
始まりは、鎌を持った少女が、
友達を裏切った、おはなし。
十二月十四日。
神社永は限りなく無愛想だ。
否、限りなく無愛想に見えるのだ。
どのくらい無愛想に見えるのかというと、家族と一緒に地元の野球チームを球場で応援に行った時に、その地元のチームが逆転満塁サヨナラホームランで勝利した時に、一人だけ無表情で居るぐらい無愛想だ。
そのせいか、小学校、中学校と友達ができた試しがない。
そのおかげで、休み時間に友達と駄弁るということが無いので一人で勉強し、周囲との学力差を開かせていた。
そのおかげで、高校進学の際に、地元では高レベルの部類に入る海西学園に入学することができた。海西学園には先に入学した、まあまあ頭の良い永の兄がいるのだが、 その兄でさえ陸上部のスポーツ推薦でなければ入学は難しかっただろうと言われている。言っているのは、主に永の父親だが。
勉強ができているから学生としては、神社永は成功の部類に入るのかもしれない。
だが、永はそんな自分が好きではなかった。
普段から自然と顔が無表情になって、他人の目からは無愛想な奴と映ってしまい、交友関係が乏しい。
それはつまり、自分は誰かを楽しませることができないという人間と世界に評価されている。
永はそういう風に自己分析していた。
永は家族も含めて、自分以外の人間、他人が好きだ。
喋ることも大好きだ。
小学校、中学校と学校で喋った日は、喋ってない日より圧倒的に少なかった。一週間に一日あるかないか。
無愛想だから、無表情だから、勉強ばかりしているから、きっと永は喋ることが嫌いなのだろう。
他人なんて嫌いなんだろう。クールに気取っているのだろう。
直接口にされたことはなかったが、永は周囲の雰囲気からそんな心の声を感じ取っていた。
違うよ。
そんなことない。
私は、あなたたちと友達になりたい。
一緒に、どこかへ遊びに行きたい。
心で思うことは沢山あったが、永がそれを口に出したことはなかった。
出したら煩わしい人間だと思われるのではないか?
心にそんな疑問が最初に浮かんだ日を、永は覚えていない。
でも、いつからか、そんなことばかり考えて他人とは話せなくなった。
本当にいつからだったのか。
もし自分が無愛想な人間になる契機の時間軸が判明したのならタイムマシンでも使ってそんな自分に一喝してやりたい。
永は他人を心底嫌ったことはない。
むしろ、無愛想である自分を嫌っていた。
友達がいないのを悟られて家族に気を遣わせてしまう自分が、嫌いだった。
嫌ったまま、しかし自分を変えることはできなかった。
こうやって、自分は淡々と大人になっていくのだろう。
家族と、それに準ずるごく少数の人間としか会話できず。
社会に出ても、他人と交えず。
でも、何が何でもと自分の心の壁を取り払おうとはせずに。
自分は、生きていくのだろう。
永は、そう思っていた。
だけれど、そんな根拠に乏しい確信は打ち砕かれた。
海西学園、高等部に進学して。
ただ勉学に励んだだけの、春が終わり、
梅雨を越して、
間もなく夏休みというところで、永は同性の奇妙な人間と出会った。
そして、夏休み、その同性の奇妙な人間を追いかけ、追いかけ回され続けて。
両手の指では数えきれない悶着の末、
秋には友達になっていた。
そして冬。
永には、友が出来ていた。
「…………」
ざわざわと。
朝のホームルーム前の教室はいつもの賑わいを見せる。
ここは、海西学園高等部の一年生のとある教室。
どこの女子高校生にも言えることだが、彼女らは一緒に登校して教室に着いてからも、そのまま談笑し、更なる知り合いが登校してきては、会話の輪に加えて、どんどん人数を増やしていく。
「…………」
別に珍しくもない景色。
目の前、教室内に広がる風景は自然だと、一人の女生徒がノートと教科書が開いてある机の上へと視線を戻す。
腰まで届く長い髪と、何を考えているのかわからないとよく言われる無表情が特徴だと友人に言われている。
その彼女の名は神社永。
永は、周囲に溶け込むのが苦手な人間だった。
それが欠点だと永は自覚している。
だが集団でお喋りをするのが普遍的な女子高校生かもしれないが、同じ女子高校生の自分がこうして一人黙々と机で教科書とノートを開いて勉強してもおかしくはないはずだと永は思う。
だから永は今の自分の姿が恥ずかしいものだとは思わずに、自習を続けようとした。
そうしようとしたのだが。
自分が手にしていた教科書がスルリと中空へ逃げた。
無論、独りでに飛んだわけではない。
いつの間にかグループの輪の中から抜け、目の前にやってきたクラスメイトの女子が、永の手から取り上げたのだ。
「ふーん、勉強してるの?」
同じ物を持っているはずのクラスメイトが、つまらなそうに永の教科書を見て呟く。
短い髪を肩口で展開させ、人相を損なわせないように小さく釣り上げられた目尻。
その顔がつまみ上げられた教科書を、ニヤニヤと見ている。
何度も、嫌でも合わせてきた顔だ。
彼女はいつも永に対してこうするのだ。
だから、永もまたいつものように言う。
「遥、一限の英語は英作文テストよ」
一変。
遥と呼ばれたクラスメイトの、その笑顔がひきつった。
そして、ゆっくりと視線が永に降りてくる。
「…………………………まじ?」
「まじ」
永は淡々と頷いた。
事実なのだから、他に言いようがない。
しばらく、といっても約数秒ほどだが、永の主観時間では長く感じられた、その間の後、
「うーああああああー…………冷やかしてやろうと声をかけたのに、何であたしの方がダメージ受けんのよー……」
遥はいきなり頭を抱え出した。
「さあ?」
その間にサッと遥から教科書を取り返し、永は勉強を再開する。そもそも前の授業でも予告され、周りにもチラホラ勉強している人がいるというのに、どうしてそれだけ無関心でいられたのか逆に永は気になった。
「……よし」
遥は何かを決意したらしい。
永の目線は机の上の勉強用具に落ちているから見えないのだが、面倒なこと(主に永が)を考えているのだろう。
「今からあたしを落第させないようにしなさい」
もの凄く自分勝手な、遥の要求。
永はゆるゆると首を振って答える。
「難しい注文ね。昔の日本を元寇に勝たせるくらいに」
「あたしの成績は自然災害レベルの奇跡じゃなきゃ何とかできないって言いたいのかオイ?」
そうは言われても今から勉強させてどうにかなる遥の頭なら、永も即答で否定はしない。
不満げに注視してくる遥を、永は教科書とノートを見つめることで回避する。
「今更被撃墜数が増えたところでだれも気にしない」
「あたしの成績が墜落していくから助けてくれって言ってんの」
だから無理、と永が言おうとすると、遥の後ろから別の女子が声をかけた。
「遥おはよー」
「あ、うん。なずさ、おはよー♪」
凄みかけた顔が一転、今し方教室にやってきた女子クラスメイト、なずさへ素晴らしい笑みを提供した。
手を振りながらクラスメイトが席に着いた途端に、遥は瞬時に顔を元に戻した。
「で、どうしたらいいのよ?」
「見事な処世術ね」
「……はいはいお褒めいただきどうもありがとうー」
ぶー垂れた顔で棒読みの礼。
自分でも嫌みが過ぎたかと、永は少し反省する。
むしろ自分が悪いのだと思う。
遥のように振る舞えない自分が。
ふと、ついさっきまで遥と談笑していたクラスメイトと、挨拶を交わしたなずさがこちらを見つめていることに気づいた。
「…………」
その目はとても見覚えのあるものだった。
「永、どうかした?」
遥が首を傾げている。
永はすぐに首を横に振った。
「なんでもない。それよりも百面相に免じて教えてあげる」
「ぐ……納得いかないけど背に腹は代えられないか……」
悔しそうにしながらも喜びかけた遥だったが、
「よーし、席につけー」
チャイムと同時に入ってきた担任のせいで、あえなく絶望を回避するチャンスは途絶えた。
「だって」
「おのれ永…………あんた覚えてろよー…………」
あまりの偶然にしれっと水を向けると、こちらをギロリと睨みながら遥は去っていく。
ため息を一つ吐き、永は黙々淡々と勉強を続ける。
「えーいー……!」
ゆらりと幽鬼のように、ぬぅっと遥が目の前に現れた。
永はそんな遥を見て一言。
「地獄からの断末魔?」
「それはもう死霊だろうが、っていうか赤点とっちゃっただろうが……まさかすぐさま採点して授業の合間に説教されるなんて思わなかったわよ……」
昼休み。
いつものように一人で手製の弁当に手をつけようとして、遥が空いている前の席に腰をかけながら怒鳴ってきた。
一人静かに食事を摂ることを永は生き甲斐としているわけではないが、もう少し静かな環境が欲しいとも思う。
「あー……これで今学期の英語の成績は絶望的だー……せめて補習は受けないようにしないとー……」
ついでに目の前で死人のような生気皆無の表情はしないで欲しいと永は心の中で付け足した。昼食が不味くなるから。
「名字は偉そうなのに先生には頭が上がらないのね」
「こら! その名前を口にするんじゃない!」
何気なく永が口を滑らせた途端、遥は大慌てする。
迫り来る遥の手を、永はなんなくかわしながら、何度したかわからない質問をする。
「そんなに自分の名字が嫌?」
すると、遥は眉間に寄せる皺の量を最大にさせた、
「嫌に決まってるでしょうが……あんたねー……! それだけは言ってくれるなって言ってんでしょうが」
遥の声は小さいながらも迫力があった。
理由は明白。永が遥にとっての地雷を踏んだからだ。
今目の前にいるのは、今年の春、この学校に入学してからの付き合いの友人。
明るくて、誰とでも話せるという、いわゆる典型的なクラスの人気者タイプという奴だ。
名は、大応遥。
読み方は『だいおうはるか』
その名字こそ、遥にとって自分の一番嫌な箇所である。
口にすると、『大応』ではなく『大王』と勘違いされるから、見知らぬ人間と話す時は、大体クスクスと笑われるらしい。たしか春の自己紹介の時も、名前のくだりで皆の度肝を抜いていた。
さすがにもう遥の人格は把握しているので、その件で冷やかす人間はクラス内では存在しない。永を除いては、だが。
「言っとくけど、もし次言ったらあんたを殺してあたしは高飛びするわよ」
「それはただの殺人事件。しかも完全犯罪宣言」
据わった目で遥が何かをぬかしている。
彼女の言ってることは多少大げさだが、実際に「よお、大王様」と挨拶してきた他のクラスの男子を数十秒睨みつけて怯ませた上、女子内でその男子の有らぬ噂を流したことがあったので、多少遥は本気だ。無論、その男子生徒を不登校に追い詰めたりはしなかった。していたら、さすがに永も少し幻滅する。
「つーかさ、あまりに名前で不利益を被る場合は名字を改正できるのよ。で、あたしのお爺ちゃんがね、元々『大王』っていうあたしにとっては辛い名字だったのを、役所に乗り込んで『大応』に変えさせたの! すっごい功績! あたしめちゃめちゃ誉めてあげたい! もういないけど!」
まったく脈絡のない話題運びだった。
よっぽど冷やかしに頭が来たらしい。
「ダイオウ遥。まるでイカみたい」
それでも永は遠慮なんかしない。
「今の話聞いてた!? 大体、あんただって神社じゃん! 『カミヤシロ』なんて呼び方してるだけで十分変でしょうが! この『ジンジャエイ』! 『イ』を『ル』に変えたらあんたは炭酸飲料だろうが!」
「確かに似てしまう。ダイオウハルカさん」
「だからその名前で呼ぶんじゃなーい……! ちくしょー、どうせなら読み方も全部変えてくれれば良かったのにー……」
忌々しいー! と遥はガリガリと頭を高速で掻く。
一通りイジり終わり、永は空となった弁当鞄にしまう。
「遥は食べた?」
「……あたしは早弁。健康優良児だからね」
名前ネタをまだ引きずりつつも、ちゃんと答えてくれた。
「その分、頭に栄養が回っていない気がするけど」
「いいもーん、あたしは将来勉強ができなくてもいい仕事に就くから」
それはそれで不安が残る職業だろう。弁当箱の代わりに水筒を取り出し、永は食後のお茶を飲む。
「そういえば遥とご飯を食べるのは久しぶり」
「あたしは弁当ないけどね。今日はみんな何かしら部活のミーティングだから、あたし一人なのよ。ていうか、あんたが食べてくれないだけでしょ?」
「いつも私と食べてたら、周りにいる人たちが驚く」
「ああ、朝もなんか変な反応されたわね。えっと、もしかして気に障った?」
「気にしてないから、遥も気にしないで」
遥はバツが悪そうにしたので、永はすかさずフォローを入れた。
遥は教室では明るい社交的な人物だ。周りの女の子と一緒になってワイワイと騒いでるときはクラスの中心人物になるまでに輝く。
そして対照的に永はあまり喋らない。
人嫌いなのではない。
ただ、あまり積極的に人と関われないだけなのだ。
そんな遥と永の周囲の評価のギャップから、遥と二人で話しているとき、永は遥を取り巻く人間にもの言いたげな目線を送られる。
天真爛漫を絵に描いたような遥と、自分のような雰囲気を陰鬱だの暗然だのが似合う女と一緒にいることに驚いているのだろう。もしくは遥とだけ仲良くしているように見える永に、良くない印象を抱いているのかもしれない。
だが、永は彼らに軽蔑したりはしない。
思うところが何もないわけではないが、こういう反応は慣れて切っている。
「私は遥と一緒にいて気分を害したことはないから気にしないで」
本音を言ったつもりだったけれど、遥は微妙な顔をする。
ひょっとすると自分は何か失言をしただろうかと訝しむが、
「うーん……もっと照れ気味に言ってくれると萌える」
「訂正。疲れるときはある」
アホな感想を漏らしたので、永はぶった切る。これが彼女流の照れ隠しだということは分かり切ったことだが。
「あ、そうだ。言い忘れてた。放課後時間ある?」
その一言で淀みなく動いていた永の手が止まった。
「またトラブル?」
「なんか面白そうな廃ビル見つけたから一緒に行こうと思って」
ニヤニヤしながら遥は永の手からコップをひったくって残りの茶を飲み干した。
勝手に自分の飲み物を飲まれることなど、遥と接していれば日常茶飯事だから気には留めなかったが、遥の台詞の方は聞き逃せなかった。
「私は巻き添え。そう何度もフォローはできない」
うんざりした口調で永は言う。
これが遥の持つ、ちょっとした特殊性だ。
どういうわけか、遥は自分が楽しいと思ったことには何でも首を突っ込むし、何でもする。
落ちている空き缶があれば、ストレス解消にとりあえず全力で蹴る。落ちている小銭があれば迷わず拾って手近な自動販売機でジュースを買って至福の時を過ごす。これは犯罪なので、後で永はしっかりと注意をした。
そして面白そうな場所があれば、立ち入り禁止の金網を破ってでも侵入する。
子供心を忘れていないと言えば、大変聞こえは良い。
だが、その度に土地の管理人に笑って許してもらえないことを繰り返すのだから、いつも同行させられる永は堪ったものではない。
一度だけどうしてそんな子供っぽい探検や冒険紛いなことをするのか聞いたことがあるが、はぐらかされた。正確には「楽しいから!」と凄く元気一杯に答えられたのだが、それを受け入れてしまうと、遥に付き合わされる永がなんだか困る。
永が渋ると同時に遥も不満げになる。
「だって、あんたぐらいだもん。こんなことにつき合ってくれるの。周りは普通の子ばかりで、そんなところに誘おうものなら『え、あの子変じゃないー?』的に噂流されて、あっという間にあたしは孤立するじゃん」
「だったら、最初から作らなければいいし、行かなければいい」
「それはそれで寂しいじゃん。あたしは別にあの子たちといても楽しいもん。でもほら、物騒なところに連れてって怪我でもされたら後が怖いって言うかさー。なんか恨まれそうだし。でも、あんただったらサバサバしてるから怖くないからっていうかさー。それにやっぱりそういう所って入っててワクワクするじゃん?」
「要するに?」
「あの子たちも友達、あんたも友達。オーケー? ちなみにあたしはあんたとバカやってるのも楽しいわよ」
「……」
ニカッと笑う遥。それを、黙って永は見つめ、
「気持ち悪いわ」
「今良いこと言ったのに手厳しいわね……まいっか、『うん、私も♪』なんて返されたら吐きそうだし」
遥も何気に手痛いことを言ってくれる。
永はちょっとだけムッとなる。
「愛想が無いことは知ってる」
「愛想は無いけど可愛らしさはないわね。普段はムスッてしてるから、威圧的に見えるけど」
「ムスッと……」
しているつもりはない、と言おうとしたものの、傍目からそう見えてしまっているのでは自意識の有無に意味はない。
「よーし、じゃあ放課後行くぞー♪ ちゃんと準備しててねー」
少し凹んだ永を置いて、遥は自分の席に戻っていった。
まだ返事はしていないのだが、遥は聞く耳を持っていなかった。持っていたら、そもそも永は巻き込まれていないのだが。
(……一緒に行こう)
永も遥と居て楽しくないことはない。
本人に言うと、照れるか調子に乗るのどちらかで、後者だったら鬱陶しいから絶対に口には出さないが。
「うわ、寒っ」
昇降口で靴を履き替えようとするなり、遥は身を震わせた。学校で指定されている真っ青なコートを着ているものの、真冬に近づいていく外気には勝てないようだ。
「あんたは寒くないの? あたしと一緒でコート着てるだけなのに」
遥のと同じくらいの丈の黒いコートを羽織り、下履きになった永は首を横に振る。
「平気。全身を張り付けるカイロで武装している」
すると、遥はしばらく固まった後、破顔した。
「なんかそれって筋肉痛になった年寄りみたいじゃない?」
「……」
肩を震わしながら笑いを堪える遥を置いて、永は一足先に昇降口を出た。
「ゴメンってば。なんか直感的にそれしか思いつかなくて」
遥は苦笑しながら追ってくる。ならば言わないでほしい。
普段はムスっとしていて、その上お年寄り扱いされては、ただの頑固なお婆さんだ。
一瞬そんな何十年後の自分を思い浮かべて物凄く嫌だった。
すぐに打ち消して話題を変える。
「今日は他の子たちはどうしたの?」
「昼と一緒で部活とかそんな感じ。珍しくみんな出払っちゃった。クリスマスの催し物とか色々あるのかしらねー?」
「帰りも一緒なんて珍しい」
「そうね。あんたは他の子がいると逃げるし」
「……」
そういうつもり、であるのだから弁解のしようもない。
あの賑やかな輪の中に自分という冷凍剤を投入されて雰囲気を冷ましてしまうと思うと、怯んでしまう。
いや、正確には。
「あんたさ、あたしに気ばっか遣ってないで少しは図々しくなった方が良いわよ。わかった?」
このお節介な友人に迷惑をかけて嫌悪されるのが怖いのだ。
「うん……」
だから、その有り難い忠告も弱くでしか頷けない。
遥の友人と居て、その遥の友人を楽しませる自信なんかない。
だから永は頷けない。
「ときめいた? あたしにときめいた?」
「イラつきはした」
意地悪な質問に、意地悪な答えを平気で返せるこの友人を大切にしたい。
「そういえばもうすぐそのクリスマスだけど、あんたはどうすんの?」
「家族で過ごす。遥は?」
「友達とカラオケにでも行く予定。去年と変わんないわね」
「男っ気がない」
「そりゃあんたもだろうが……」と言い返される。
全くだと永は同意する。
そもそも、永には友達すらほとんど居ないというのだから、更にその上の関係である恋人と聖夜を過ごす予定など見切り発車でも立てようなどと思わない。
「……ねえ、永」
「何?」
遥が神妙な顔をして尋ねてきた。
「クリスマスは一緒に遊ぶ?」
「…………」
「ほら、夏休みも旅行誘ったけど断られたから今度はどう?」
心配するような、それでいて説教をするような表情で遥は言う。
そんな顔をさせてしまうこと自体に申し訳なく思う。
どれほど親身になったくれているのかは想像に難くない。
「行かない」
だけど、永はハッキリと断った。
「私が行っても遥の友達は喜ばないと思うし、やっぱり私に気遣いをして楽しめない人もいるだろうから」
すらすらと、もう三度。
今日だけで三度も使った言い訳が先に出てしまった。
「いい加減にしなさいよ、あんたも」
しまったと思ったときには、遥は少しだけこちらを睨んでいた。
「あのね、そんな子が居たらあたしが言ってあげるから大丈夫とは言えないわよ? 確かにさ、あたしは自分本位だから当てにはしてくんないかもしれないし、あんたが気に食わないって言う子もいるかもしれない。
でも、あたしは永を切り捨ててみんなで遊ぶのも嫌だし、みんなを切り捨てて永と遊ぶのも嫌。そりゃ普段はしょうがないわよ、あんたもまともに話したことのない子たちと一緒に遊ぶのは嫌だろうし。でも、あたしはそういう日ぐらいは一緒に遊びたいわよ。
ていうか、あんたが嫌われるんならあたしも嫌われて、逆にそんな面倒くさい奴が嫌われるように根回ししてあげるわ」
真剣に。
大いに真剣に、遥は言った。
自分は全員と一緒にいたいと。
誰か一人を欠かすことは嫌だと。
(真っ直ぐ)
永はいつも遥が羨ましく思う。
生来と断言するには些か改善の努力が不足している気がするが、永は自分が口下手だと自覚している。ただ佇んでいるだけで怒っているように見えるとまで言われる無表情と相乗効果で際立つソレは、永にとってもコンプレックスとなっている。
だから、その自分とは真反対に、本音でぶつかえる遥の心根が眩しい。
「ごめんなさい」
だけれど、眩しいから、永は遥が本音を打ち明けてくれたときは、本音で対抗したい。そういうのは得意ではないけれど、一年近くもこんな自分と一緒にいてくれる友人は他にいないから。
「私の家族、仲悪いから。クリスマスとか、そういう日は仲直りの切っ掛けにしたいの。私がいないと喧嘩ばかりする人たちがいるから」
これが、本当の理由。
その瞬間、隣を歩く遥は一瞬だけ呆気にとられたように目を丸くし、
「ふーん…………そっか」
真正面を向いたまま頷いて息を吐く。真っ白な息が遥の前方を濁した。
残念そうな、けれど仕方がないなと言いたげな態度だ。
いや、ただ単に戸惑っているだけかもしれない。
永も自分がこんな正直に気持ちを言ったことはないから心の中で驚いている。改善してみようと思って即実践できたことはあまりなかったから。
付き合いが悪い、普通の遊びの約束に一度も乗ったことのない自分に、遥が未だに執着してくれていることが余程嬉しかったのか。
永は更にこう続けた。
「初詣なら、」
「ん?」
「初詣なら、一緒に行きたい」
「あんたって、そんな神様好きなの?」
真顔で問い返してきた、この友人は。
「……やっぱり止める」
プイとそっぽを向こうとすると、
「ちょっとー、冗談に決まってるでしょ。一緒に行くわよ、初詣ね」
ニシシとイタズラっ子のように笑い、遥は頬をつついてくる。
永はされるがまま、決して目を合わせないように正面を向き続ける。
本当に意地悪だ。精一杯振り絞った本音だけでは満足できず、さらにもう一絞りを要求するなんて。
「じゃあさ、一足先にクリスマスパーテイーやらない? これから行く廃ビルでさ」
コンビニを必死に指し示しながら遥は言う。
永はツーンと顔を背けたまま皮肉る。
「初めて会った時みたいに素行の悪い人達に喧嘩は売らないでね」
「あー、確か港の倉庫街の時だっけ? だってあたしが一人花火やろうとしてたのに邪魔するから、そこは仕方なくロケット花火を全弾発射してみるしかないというかなんというか……」
台詞の後半になるに従って、遥は必死になってムニャムニャと弁解する。
「ていうか、それ忘れたことにしたんじゃないの? あたし滅茶苦茶謝ったじゃん、土下座もしかけたし」
「時と場合によって思い出す」
えー卑怯と不平を言う遥に、永はほんの少しだけ、見つからないようにクスリと笑う。
この先ずっと友達だ。
永は、根拠も何もなく、そう確信していた。
遥との友情がいつまでも続くものだと、そう思っていた。
「うおうわああああ………………! 油断したあああ………………!」
「寒い……」
すでに日は落ちて、街は暗闇に包まれた時のこと。
二人は有言した通りに、とある廃ビルの、ただ広いだけの部屋の中にいた。
その近辺はお世辞にも治安が良いと評することはできず、二人が通う学校の生徒たちが敬遠する地区である。周辺には同じような廃ビルが幾つもの立ち並び、他にあるのはちらほら堅気には見えない人間が出入りしている小さな住宅だ。きっと何とか組とか、いかにもソッチの道を極めた方々の事務所なのだろう。
そういう人たちには一切会わないように、すれ違うときには決して目を合わせないように、永と遥はこの十階建てほどの何の資材もない、ヒビだらけのビルに忍び込んでいたのだが。
廃ビルということは暖房器具も、風を妨げる窓ガラスも揃っているはずもない。
二人は真冬の強風に晒されながら、今更そんなことに気が付いたのだ。
「永、今から襲って全身に貼ってあるカイロ奪い取っていい?」
「遥、服を全部私に貸して」
二人でしゃがみ込んで震えながら、お互いに無茶な要求をするほど寒さは厳しかった。
「ケチ」
「変態」
どうしてかケチ扱いされたので永も言い返す。
体を温める熱量を産み出さないやりとりだった。
「ちっ。なら、っと。ふー、ホットのコーヒー暖かいー……」
遥は行きのコンビニで買った物を傍らに置いたビニール袋から取り出していた。
永もそれに倣ってウーロン茶を取り出した。確かに暖かい。
「誰もいないところを選んだまでは良かったけどねー……やっぱ寒いわー……」
「むしろ頭が回らなかったのが驚き」
どういう神経してこの時期に廃ビル、いや。そもそも女子高生が廃ビルに行きたがるのがおかしい。それに付き従った自分も自分だが。
「にしても、何でわかったわけ? こっちのビルには誰もいないって」
遥が不思議そうにこちらを見るも、
「勘」
と、永は一番現実的で現実的には聞こえない答えを返した。
「ふーん。ま、何でもいっか。どっちにしても廃ビルには変わんないし、あたしが目をつけてたところはヤンキーっぽい奴らがいたし」
遥は興味を失ったのか、自分の分の袋を漁り始める。
そう、ここは遥が探検を予定していた場所の二つ隣のビルだ。そっちには先客がいたので、永はこっちに来るよう促した。
正確には先客、ガラが悪いようにしか見えないチンピラ連中がたむろしているのがコンクリートの壁や床越しに見えたのだ。
永には、そんな奇怪な能力がある。
透視。
それが多分一番しっくりくる呼び名だ。
その力は本当に念じるだけで永の視線の障害物を透かしてしまう能力なのだから、他に適当な呼び名が無い。
何時、何処で、どのように身に付いたかなんて覚えていない。
いつだったか忘れたが、邪魔だなと思ったときに偶然にも物を透かすことができてしまった。それから自分なりのルールでこの能力を悪用だけは避けて使用してきたので、正確に透視ができるようになった時期は思い出せない。
だから永も特に気に留めていない。
そのはずだったのだが、
「永―」
横からの呼び声に、永はハッとする。
「今からケーキ出すわよ、ケーキ。あたしの~とっておき~」
変な風に語尾を伸ばしながら、遥は一緒に買った紙皿の上にコンビニ製のフルーツたっぷり三角柱ケーキを置く。どうしてかまだクリスマス本番でもイヴないのに砂糖のサンタ人形が乗せられていた。永はコンビニでケーキを買ったことがないので、コレが正常なのかわからないが。
「どうしたの? あ、サンタさん食べたいんだ。じゃあ、あげる」
「え?」
ぼーっと他事を考えていたので、ついサンタを凝視していたら遥がそのサンタ人形を摘まんで永の目の前に持ってきた。
「…………」
なんとなく受け取って口に運ぶ。
ガチンッ
「…………」
「ぷっ…………! サンタって堅いでしょ、そう簡単に噛み砕けないわよ。ぷくく……!」
「……返す」
笑いを堪えている遥に、永はすかさずサンタを返却する。今ならきっと傍目からの印象通りに大層な仏頂面だろう。
「ごめんごめん。まさか知らないとは思わなくてさ。食べたことなかったの?」
「無い」
いつもチョコでできた家のケーキしか買ったことが無いからサンタの強度なんか知らない。
そっぽを向く永を、遥はまた少し笑って、ビニール袋からもう一つ同じケーキ、そしてろうそくを出した。二つのケーキに突き立てるつもりらしい。
その横顔は実に楽しそうだった。
永と一緒にいることなど苦になんかならないと、言わなくても感じ取れてしまった。
「…………」
その姿に、永は心を痛める。
理由は、簡単だ。
遥に透視のことを言おうか、悩んでいる。
それは実に急な思いだった。
今日は色々本音をぶつけたせいか、それとも生まれた初めて友達だけでクリスマスを祝っているせいか感情が昂ぶっている。
自覚できるし、嫌でもしてしまう。
これ以上嘘を重ねてもよいのかという考えが、ふっと脳裏に浮かんでくる。
簡単に言えることではない。簡単に言う事でもない。
むしろ一生胸に秘めておくことではないのかとも思い、家族にも打ち明けていないことだ。
決して家族が遥に劣るのではない。
これまでの人生で何の縁も無かったはずの他人がここまで永に関わってくることはなかったから戸惑っているのだ。
ひょっとしたら気味悪がられて、明日から避けられるかもしれない。
でも遥はそんな不誠実な人間ではない。ずっと永の味方であったし、その言動を疑ったことは一度もない。
ならば、どうするべきなのか?
「さっきからどうしたのよ?」
「え?」
いきなり声をかけられて永は驚いた。
いつの間にかろうそくを立て終えた遥が永の顔を、真剣な顔で凝視していた。
「何か言いたい事でもあるの? これは悪い意味で言ってるわけじゃないわよ? なんか見てて辛そうだから聞いてるだけ」
「……それは」
「あんたって無意識だと結構思ってること顔に出るからさ」
少し、遥は笑った。
さっきのようなからかい混じりではなく、優しげに。
「言いたいことはゆっくりと考えてから言いなさいって。先走っても良いことなんか無いんだから」
その言葉が胸に深く、とても深く染み渡り、
「……遥、ありがとう」
永は笑い返した。
「さーて、何のことやらー?」
大げさにおどける遥に、永はますます笑みを深めた。
こんなに笑ったのは何時以来だろうと思ってしまうくらいに。
「よーし! なら、一気にファイヤーするわよ!」
「わざとサンタに着火しないでね」
「いやいやいや! あたしはそんなに極悪人じゃないから!」
いつもの調子に戻って二人は軽口を叩きつつ、二つのケーキの上の二つのろうそくに火を点そうとしたその時。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!」
遠くで大きな音がした。
それは確実に人の声だった。
「うっさいヤンキー共ね。せっかくこれからクリスマスパーティーなのに」
点火の瞬間に気を逸らされた遥が不満を垂れる。
が、永は不満の前に首を傾げた。
「……」
本当にそうだろうか?
素行の悪い人間の馬鹿騒ぎの熱狂で出てしまった大音量の声。
それとは毛色が違う気がする。
「永?」
「ちょっと見てくる」
妙な予感がして、永は立ち上がり部屋を出る。
そして廊下の枠しかない窓から声の方を見やる。
目の前に二人がいる場所と同じくらいの高さの建物がそびえ立っている。
だが、永の透視の前には関係が無い。
まずは、壁を消して中を覗く。
屋上、その下のフロア。
全てを観察するも何もない。
とりあえず隣のビルが原因ではないらしい。
ではやはり二つ隣にいたチンピラの男たちだったのか。
二つ先のビルを透かして見る。
「―――――――」
居た。男達は居た。
いくら障害物が透明になったとはいえ、距離的には若干遠く見辛い。
けれど見えないことはない。
故に、男達が何をしているのかはわかった。
男達の中で立っている者はいなく、またマトモに座っている者もいない。
真っ赤に汚れた服を身に付けてビクリとも横たわっている人間しかいない。
赤い液体を垂れ流している人間しかない。
喧嘩、ではないだろう。
何故なら遠目に見ただけでも殴り合いや刃物の出し合いでの出血量とは思えない。
それに決定的なのは、
首から下しかない人間がいるように見える。
殺されている。
そう、男たちは、殺されているようにしか見えない。
これは現実なのか。
見間違いか。変な力を使ってきた弊害による幻覚か。
「どうしたの永?」
「―――っ」
後ろからやって来た遥に声をかけられて、永は気を取り戻した。
今は現実逃避や考え事をしている場合ではない。
「……遥」
「何?」
「…………今すぐここを出た方がいい」
「は?」
「いいから付いてきて!」
きっと、それは遥にとっては初めての永の怒声だったろう。
遥は目を丸くして口を半開きで固まったのだから。
だが、永はそんなノンビリとした行動を許さず、彼女の手を引いて駆け出した。
不吉な予感しかしない、この場所から一刻も離れるべきだ。
まるで家族を人質にとられて誘拐犯に脅迫されているような、脳髄に逃走という指令が強く発信されている。
鞄など明日にでも取りに行けば良い。もしただの杞憂だったら、すぐに遥に謝ってクリスマスパーティーをやり直せばいい。
最早、永の頭に『気の遣い過ぎだから、このままここにいよう』という考えは無かった。
(……どうしたのかしら?)
遥は、見たことのない友人の焦った顔を見つめている。廃ビルの通路を、手を引かれたまま走りながら、さっきまでの永を思い返す。
永は妙な様子だったのは間違えない。
変に考え込んだり、顔を顰めたり。
勿論その変化は微細で、何カ月も一緒にいなければ気付けなかっただろう。
だが現在の永は、それまでの永にとっては大きな感情の動きを超える、感情を全面に押し出した行動と顔をしている。
(あんたらしくもないわね。何から逃げてるのよ?)
遥はただ怪訝に思うだけだった。
変だとは思いつつも、永の行動を疑って手を振り払ったりしない。永は言葉の軽いジョークは吐くけれど、こんな演技をしてまでからかうような真似はしない。
ならば今は本当にすぐにでもこの廃ビルから立ち去らねばならない事態が発生しているのかと問われると、素直に頷くことはできない。
(まあ、気の済むようにやらせて何もなかったら文句を言えばいいか)
と、遥は奇しくも永と同じように『ここに留まる』という選択は考えなかった。
これは一見、正しいように思う。
二人の人間が心を同じくし逃亡を図る。不協和音は起きず、迅速に脱出できるに捉えられる。
結果的に言えば、二人の選択は間違っていた。
何が何でも助かりたければ音を立てずに廃ビルから煙のように消えるべきだった。
襲撃者はもうそこまで来ていた。
「え?」
一階に辿り着き、一階の通路を走り、もうすぐ出口が見え始めた時、遥は驚きの声が漏れた。
それは先頭を走る永が止まったことではない。
化け物がいたからだ。
化け物、と遥が思ったのは目の前の生き物が遥の記憶にソレに該当する生き物がいないからだ。
闇夜を背景に入口に立ち塞がる、犬のような輪郭をした生物。
だが、犬ではないのは遥でも確信できた。
四本足で立っているのに、縦の大きさは遥よりも大きく、人間用の入り口にギリギリ入るか入らないか。体長に至っては、人間の身長など比ではない。
身体の形は、判別ができなかった。
夜の暗がりのせいだけではない。
全身をくまなく、長過ぎる体毛が埋め尽くしているからだ。かろうじて犬と表現できるシルエットをまるで別の物に変質させかないほど、尋常ではなく長い。
犬でここまで大きさの種類を、遥は知らない。いや、知っていたとしても、この国に犬などいるはずがないという妙な確信さえ得ていた。
だから、アレは化け物だと遥は直感で判断を下した。
だが、別の疑問がすぐ浮かぶ。
――そもそも、どうしてこんな体躯をした生物が野放しになっているのか?
「…………」
開いた口が塞がらず、遥は目の前の生き物を見つめる。
その瞬間。
「え、」
遥の片手を握った永が動いた。
痛いほどに遥の手を掴んだ彼女は、いきなり遥の身体を窓から外に押し出そうとした。
「ちょ、永! 何すんの!」
あまりの唐突な行動に頭がついていかず、遥は窓枠を掴んで抵抗してしまう。
「早く!」
永が再び怒鳴った、その時。
化け物は動いた。
「■■■■■■■■■■■■!!!!!!!」
建物を揺らす咆哮を上げながら、二人に向かって巨体をぶけようと突進を開始した。
ダン、ダン、ダン
一定のリズムを刻みながら、しかし猛スピードで駆けてくる。
「――っ!」
同時に永が動いて、踏ん張っていた遥の体に体当たりをした。
「痛っ!」
強く押し出された遥は地べたに投げ出される。
直後、目の前にあるビルの窓から強風が吹き荒れた。
それは怪物が驚異的な速度で走り寄って来たために発生した突風で、押し出された空気が遥を直撃する。
「――――っ!」
悲鳴を上げる間もなく、遥は地面を転がって行く。
これが本当に生き物の疾走?
今のは生き物に見えたダンプカーではないのか?
そんな疑問は浮かばせながら、遥は横たわった体を起こして立ち上がった。全身に鋭く痛みが走るが、気にしている場合ではない。
「永?」
自分を逃がしてくれた友人の名が呼ぶ。しかし、応える声は無い。
「どこにいるの! 永、出てきて!」
遥がもう一度叫ぶも、永は音も形も返してくれない。
「ちょっと…………冗談よね?」
声は無い。
誰も、遥の後に続いて窓から逃げ出してはこないし、応答もない。
(まさか私を逃がして自分は――なんてことないわよね?)
最悪の予想が頭の中に浮かぶ。
先の化け物の突撃を思い出す。
「――っ! 永!」
根拠のない否定などできるはずもなく、遥は駆け出そうとした。
だが、その時、
足元に落ちていた何かを蹴った。
友人の窮地に駆けつけようとした足が止まった。
止まってしまった。
蹴飛ばした物を一瞬でも見てしまった。
「―」
もし。
ここに居たのが永だったら、きっとソレを見てもショックを受けなかっただろう。
だが、ここに居たのは遥。
そして、何も知らない遥。
不思議な力など無い、遥。
「――」
そこにあったのは、球。
球の形になってしまったもの。
本当なら、その下には、首と呼ばれる部位がついてあるはずなのに。
コレは、コレそのものだけで存在していいものではないのに。
「――――」
そこにあったのは、人間の頭。
だけれど、その下には胴体など無く、
白目を剥いて、絶命した人間の――
「――――――」
思わず目を逸らす。
だが、そこにもまた別の首があった。
また、目を逸らす。
しかし、そこにも首。
首、首、首、首、首、
全部で五つの首が、
血塗れになって、
遥の周りに、
あった。
「 」
遥は叫んだ。
自分でも何を言っているのかわからない。
助けを求める声だったのか、意味もない悲鳴だったのか。
これは本当に現実なのかと自問する。
(それは間違いないだってついさっきまで永と一緒にいてちゃんと日常だったのだからではここにある生首も現実?じゃあこんなことをしたのは誰?)
「――――!!!」
最後の問いに、遥は本能的に気付いて、走り出した。
その直後に遥が走り出した先は、
友人が居たはずの廃ビルではなかった。
それは、本当に幸か不幸か。
思考能力を発揮させて走り続けたわけでもないのに。
遥は狭い道を、疲労で足をもたつかせ、足元に注意を払わずに転倒し、それでも足を動かし続けた結果。
最後の路地を今まさに抜けようとする寸前。
居酒屋などの飲食店が立ち並ぶ、人通りが多い大通りに出る寸前まで来ていた。
本当に数歩歩けば大通りという距離で、通行人の何人かは路地にいる、ほうほうの体の遥に気付いて訝しげな視線を浴びせて通り過ぎて行く。すでに夜も深くなっているので、ここはもっとも人目につく時間帯となっている。
「……………………逃げちゃった……」
遥は呆然と立ちすくみながら後ろを振り返る。
「逃げ切れちゃった…………」
そう、そこには誰もいない。
現実とは思えない猛獣など追ってきていない。
例えいたとしても、ここから大通りに出て人ごみに混じってしまえば逃げおおせるだろう。
そう、自分の命は助かったも同然ではないか。
身の安全を確信する遥だったが、それは同時に、
「永を残して、逃げちゃった………………」
別の事実を肯定していたのだ。
永がいない。
どうしてか?
考えたくもない、けれどすぐにわかる答えが思い付き、
「はは…………」
遥は笑った。
「あはは………………」
だって、笑うしかないではないか。
「ははははははははははは!」
「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!!!!!!!!」
虚空に、遥の哄笑が響いた。
向き合いたくない現実など壊れてしまえ。取り返しのつかない過去が消えて無くなれ。数分前の自分の選択と非現実なんか有ってたまるか。
認めたくない事実を壊さんばかりに、遥は壊れたラジオのように笑い続けた。
どうして永が今自分の傍にいないか?
そんなの簡単だ。
自分が裏切ったからだ。
あんな、
おそらく、人の首を胴体と切り離してしまう、
そんな生物が居る所に、置いてきたから。
助けようとか考える前に、逃げ出して、
見捨てたからだ。
他に何がある?
――だってそうじゃないかあそこで自分が加勢しても何にもならなかったに違いない勝てる見込みなんか計算する気になれないしだから見捨てた何かおかしいのか言って見ろ言えるものなら言って見ろ友達なら助けるべきじゃないのかそんな正論はわかっている敵わなくても一緒に死ねることはできるなのにどうしてしなかったって聞くなそんなこと決まっているだろうあたしは死にたくなかっただから逃げた当り前だろ文句があるのかだって自分が死ぬのは怖いに決まっているだから反論するなお願いだからお願いだからお願いだからお願いだからお願いだからお願いだからお願いだからお願いだからお願いだから
誰も、あたしを責めるな
「はは……ははは……」
最後に、乾いた笑いを浮かべると同時に、遥の目から涙をこぼしていた。
高校一年の冬。
遥は、二重の意味で大切な友人を失った。
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