二月十五日・水曜日
 夕方



 冬の早めの日没前のこと。
 夕暮れの、海西学園の二年生のとある教室。
 すでに放課後になり、クラスメートたちは各々の放課後を過ごすべく、散り散りになり、教室に残っているのは二人の男女だった。二人の他には残っている者は存在せず、遠くから運動部の声が届くくらい教室内は静かだった。
 その光景だけなら、恋人同士の仲睦まじいシチュエーションに見えたかもしれない。
 だが、その二人を取り巻く雰囲気は剣呑だった。
 その二人、帰り支度を始めていた男と女の生徒二人の話の声だけが教室に木霊する。
「ね、ねえ速人(はやと)?」
「なんだよ智雨(ちさめ)
 ポニーテールをゆらゆらとさせながら女生徒のほうは、自分よりも一回りは背が高い男子に近づいた。その歩み寄りは小動物のように頼りなく、かける声も若干上擦っていた。
 対して、彼女の隣で冷静に帰り支度をしている男子は微塵も感情の揺らぎを出していなかった。目つきの良い方ではなかった彼だが、つい最近はこんな冷たい目をしていなかった。元々の長身との相乗効果で、刃物のような険呑な雰囲気を醸し出している。
 だが智雨は知っている。
 男子生徒、速人はこんな人間ではなかった。
 枝元智雨は長い間、今目の前にいる速人と長い時間を過ごしてきた。
 家が近所で、幼稚園から始まって、今の高校生までの付き合い。
 幼馴染というカテゴリーの中でも、中々な腐れ縁だった。
 速人とは家族単位での付き合いもあった。
 自信過剰な言い方かもしれないが、自分はもっとも速人と近い関係にある人間だと、認識しているつもりだった。
 だが、つい最近になって、こんなギスギスした関係になってしまった。
「きょ、今日はさ、一緒に帰らない? 部活が終わるまで私待ってるからさ」
 だからそんな変異した関係を変えるべく、今日こそはと今まで思って実行できなかった提案を、智雨は勇気を出して実行した。
「いいよ、一人で帰れって」
 だが、そんな少女の一大決心を全く悟った様子のない男子生徒、速人は無下に断った。
「……っ……」
 あまりの即答に何も言えず智雨が後退しかける。
 そこに、
「おい速人! お前どうしてこの時期に部活を辞めるんだよ!」
 ドアからジャージ姿の別の男子が怒鳴りこんできた。
 智雨は彼を知っていた。速人と同じ陸上部の、それも同学年の友達だ。だが、ここまで激昂している姿は智雨の記憶にもほとんど無い。
 そして、
「受験勉強に専念するためだ。悪いけど、お前が代わりに部長をやってくれ」
 そんな彼の剣幕にここまで冷静でいられる速人の姿は見たことが無かった。
 当然、速人の友人は食ってかかった。
「ふざけんなよ! 部長は誰にでもできるかもしれないけど、キャプテン不在はあり得ないだろ! お前先輩たちに申し訳ないとか思わないのかよ!」
 だがいきり立つ彼に対して、速人はまるで感情のこもってない声を返すだけだった。
「だから悪いって言ってるだろ。お前ならきっと引っ張っていけるって」
「――っ! お前それマジで言ってんのか!」
「俺帰るから、もういいか?」
 トドメの一言で速人の友人はもう我慢がならなかったようだった。
「そうかよ! ならとっとと帰宅部にでも何にでもなれ!」
 最後に彼は速人の机を叩いて、教室を出ていった。
 静まり返る教室の中で、智雨は口をなんとか開けた。
「り、陸上部辞めちゃったの?」
「ああ。もうすぐ進級するんだから勉強しないといけないだろ」
「で、でも部活で推薦を貰って大学に行くって言ってたよね? なのにどうして辞めちゃったの? 走るの好きだったんじゃないの?」
 おそるおそる真意を問いただそうとした智雨に、速人は大きく息を吐いた。
 こんな人を小馬鹿にしたような仕草も、ちょっと前までの速人はしなかった。
 だから一層智雨は心配してしまう。
「お前が帰らないなら俺が先に帰る。じゃあな」
 しかし、そんな智雨の心配などまるで伝わらず、速人は歩を進めた。
「ま、待ってよ速人! もしかしてまだ永のことを――」
 バタンッ、
 と、教室のドアが閉められる。
「…………っ!」
 その音がまるで速人の心情を表しているように聞こえて、智雨はビクンと身をすくませた。
 こうして、
 神社速人は、幼馴染から逃げるように、教室を立ち去った。















 神社(かみやしろ)速人。
 それが、彼の名だ。
 標準の高校生の身長より、十センチ以上先に頭があるほどの長身が彼の特徴だ。
 それ以外に目立った部位などない、髪を染色したり、ピアスを付けたりもしていない。
 至って普通の高校二年生だ。
 特に勉学に秀でているわけでもなく、特に素行を悪くして教員たちに目をつけられているわけでもない。
 部活は陸上部に所属していた。
 これは過去形だ。
 何故なら先程、速人は陸上部の知人に退部宣告をしてきたからだ。
 頭に血が上っていたから、もしかしたら明日から部活に戻るよう説得されるかもしれないが、速人に応じる気はサラサラない。
 彼は単なる気まぐれ、もしくは陸上が嫌になって止めたからではないからだ。
 そう、単なる普通の高校生が思いつくような理由では、部活を辞めたりしていない。
 だから、きっと速人はどれだけ言葉を紡がれても、どんな人間に説得されたとしても、陸上部退部を撤回したりしない。
 目的を果たすまでは、安穏と時間の流れるままに進んでいく学校生活に、身を浸すわけにはいかないのだ。
 それが彼の決意だった。


 速人が智雨と別れて六時間以上が経った。
 今は深夜。
 日光の代わりに街のネオンの明かりが、水那市を照らしている時間帯だ。
 神社速人は、あの後全力で走って家へと帰宅すると海西学園高等部の制服からラフな私服に着替えて、夜の街へと出ていた。
 一緒に帰ろうと言ってくれた智雨に嘘をついて遊び歩いているわけではない。
 帰る方向が一緒だから一緒に帰ろう。
 おかしくはない。
 速人と智雨はそういう会話も何回もして、何回もその通りに実行して来た。
 だが、それはついこの間までの話。
 今の速人には、すべきことがあったから。
 そのためには水那市という街を夕方だろうが夜だろうが徘徊する必要があるのだ。
 速人は商店街の通りを歩く。
 この街の人通りはいつも通りであった。
 普通に人がいて、普通に各々の生活をしている。
 そこには何ら問題もないように思える。
 のんびりとしているように見える。
「くそっ……」
 速人が悪態をついたそのとき、
「ちょっと、そこの君。早く自宅に帰りなさい」
 速人は運悪く、制服姿の警官に行き合った。
 ご丁寧にも速人の顔を見かけるなり、「やれやれ、まったく。こんな遅くに何をしてるんだ?」とまるで父親のような顔で、その男性警官は説教をくれてきた。
「俺はあんたの子供かよ。じゃ、さよなら」
 速人はウンザリしながら、その警官の横を通り過ぎて、街の、学生が到底行ってはならないエリア。いかがわしい店や居酒屋などが立ち並ぶ、まともな感覚を持った学生ならまず立ち寄りそうな店などが一件もない一帯の中に行こうとする。
「ちょっと君! 帰れと言っているのがわからないのか! そっちに自宅があるのか?」
 しかし警官に肩を掴まれる。
 速人はその手を、まるで肩に乗った羽虫を疎む目で見る。
「うるさいな、警察の言うことなんか聞くか。それに触るな。偽善者精神が感染する」
「……大人をバカにするのも大概にしなさい」
「正義のヒーローごっこやってる警官こそ市民をバカにしてないか?」
「な、」
 距離感を近く感じさせていた親愛の情のようなものを浮かべていた警官の顔面が強張るのを速人は、冷えた目でソレを観察していた。
 さすがに憤るだろうか。
 そうなったら時間の無駄だ。さっさと逃げてしまおう。
 そう算段して、速人が警官の言葉を待っていたら、


「おいバカ息子。こんなところで何してやがる?」


 正面から、速人は聞き覚えのありすぎる声が聞こえてきた。
 目の前に現れたのは、スーツ、紐止めの革靴という会社員のような服装。顎にむさ苦しい無精ひげを生やした中年の男。
 この男も警官だ。
 速人を帰宅させようとした警官と違って、青い警官服は着用していないが、速人は知っていた。
 むしろ知らない方がおかしかった。
 男の名は、神社久。
 名の通り、神社速人の血縁関係にあり、実の父親である。
 久はゆっくりと速人の前まで歩いてくると、呆れた眼差しを向けてきた。
「神社警部。お疲れ様です」
「おう。ところで速人、親切で物言ってる人間にうるさいはねえだろうよ」
「……うるさい。あんたは黙ってろよ」
 速人の声が、背後にいる警官を前にしていたときより数倍低くなる。目つきも、どこか生気の無かったものから、険しく、鋭くなる。それに圧されて、速人に構っていた警官は数歩後ずさった。
 いかにもな若者のキレ方に、久はただ嘆息するしかない。
「あのなぁ、未成年がこんな夜遅くに出歩いてて物騒な事件に巻き込まれたらどうするつもりだ? 死んで新聞の記事に載りてえのか? 葬儀をテレビで派手に全国放送されてえか?」
「うるせえよ。あんたには関係ないだろ」
「ああ、お前の事情なんざ知ったこっちゃねえな。だからこそ問答無用で帰れって言ってんだ。お前の青春は学校のグラウンドで費やしてろ。こんなところで無駄な時間使ってると、三年の最後の大会で恥かくぞ。今年はキャプテンも部長もこなさなくちゃならねえんだろ」
「陸上部はもう辞めた」
「…………………………………………んだと?」
 初めて久の表情が曇り、目が細くなる。
 久の顔に現れた表情に速人は一瞬戸惑うも、すぐに我に帰り声を荒げる。
「部活なんかやってたらロクに捜査ができないから辞めてやったっつってんだよ!」
「……こんのクソガキ。よりにもよって『捜査』だあ? ざけんのもたいがいにしとけよ。ドシロウトの一人でやる調査なんて捜査とは言わねえんだよ。それはただの『探偵ごっこ』だ。それすらもわかんねえのか?」
 久としては、それは当り前の言葉だった。
 一般常識的にも親の立場としても、今は学生が街を歩いて良い時間帯ではない。
 だが、速人にとってその言葉は、自分を見下し切った言葉にしか聞こえなかった。
 歯を強く噛み締めて、速人は猛然と言い返す。
「そもそもあんたがもっと永の事を気にかけてたら、あんなことにはならなかっただろうが! 仕事ばっかりやってるから永がいなくなっちまったんだ! あんたは永に見捨てられたんだよ!」
「……っ……」
 久は速人の雄叫びに眉をひそめる。
 そして、傍らの警官に言う。
「……おい、行くぞ。もうこのガキは放っておけ」
「え? で、ですが」
 戸惑う部下の肩を押しながら、久は続ける。
「どうせ運悪くその筋の奴らに絡まれてボコボコにされるのがオチだ。その時になったら助けてやれ。下手に揉めて怪我してもバカらしいしな。変に気にかけなくていいぞ、いざとなったらオレが全面的に責任持ってやる」
「一生言ってやがれ。このダメ人間が」
 その会話を聞かされた速人は、そう吐き捨てると、歩を進めて二人の視界から消えて行った。
「バカ野郎が……」
 久は憎々しげに呟くと、部下を連れて速人と真反対の方向に歩きだした。







 速人には、三人の家族がいる。
 一人は、仕事にばかり心を傾ける、速人にとってはロクでもないとしか思えない父親。
 その父親、久については、速人は考えるだけで虫唾が走るほど毛嫌いしていた。
 家で会っても、挨拶など交わさない。
 同じ食卓についても、目線を合わせない。
 廊下でぶつかっても、何も言わない。
 そんな冷え切った関係だ。
 思えば家族らしい会話をしたのも、ついさっきの道端以外では記憶にない。
 海西学園に入学して、一応祝いの言葉は貰った。
 だが、それ以降久が速人の学校生活について何も言わず、速人も何も言わなかった。
 一年生の時、速人が何となく目に着いた陸上部に入部したのも、久には報告していない。
 一年の身でありながら先輩たちよりも脚が速く、大会参加メンバーに選ばれたことも、
 その夏の大会で良い成績を残したことも、
 二年の夏の大会が終わって、引退した三年生の先輩から部長とキャプテンを兼任するよう言われ、それに応じたことも。
 全部久には言っていなかった。
 それなのに、何も言っていないのに久は速人の近況に詳しいのは、妹が速人の代わりに報告していたからだ。
 そう、速人には妹がいた。
 速人が生きている中では、唯一家族と思える人間だ。
 そういう妹が、居た。
 神社永。
 それは、神社速人の一歳下の妹だ。
 ちょっと小柄で、無愛想気味な顔のせいで人間関係において少し損をしている、そんな妹。
 速人たちの母親は早くに死んでしまって、家族は三人になってしまった。
 そんなとき小学校高学年だった永は父親の久に代わって家事を積極的にこなしてくれた。自慢の妹だった。
 だが、その永はもういない。
 去年の、といってもほんの二か月前。
 十二月十四日。
 彼女は行方不明となった。
 本当に突然だった。
 その日、速人は陸上部でヘトヘトになるまでに走り続け、帰宅するなり眠った。
 そして、数時間後に目が覚めても永が帰って来ていなかった。
 変だなとは思った。
 永は部活に属しているわけでも、業務が忙しい委員会に属しているわけでもないので、帰宅時間が大幅にズレるということは、少なくとも連絡無しには一度もなかった。
 だけど、速人は奇妙さを感じたまま何もしなかった。
 そして、永がいなくなった日の翌日。十二月十五日。
 捜索願を出したことを、父親であり刑事でもある久が帰宅するなり、そう告げた。
 速人は呆然として何も言えなかった。
 それは、永が犯罪に巻き込まれたかもしれないという可能性を、速人の中で段違いに上げる言葉だった。
 速人は自分の鈍さを呪った。
 父親だが大嫌いな久の行動の方が早かったことも悔しかった。
 自分は何もできなかったと思い知らされたような気分だった。
 そうやって速人は無力感を味わいながら、久からの一報を待っていた。
 大嫌い、憎んでいるにも関わらず、この時ばかりは警察という巨大組織に属する久を、速人は珍しく信用していた。
 まさか、また家族を無くすなんていう愚を、久でも起こさないだろうと信じてしまった。


 だが、永のいない現実はそれからずっと続いた。


 永の捜査を始めてから、久方ぶりに夕食の時間が重なったとき。その席で、大丈夫だと久は速人を目の前に宣言したことさえあった。
 なのに、全く役に立たなかった。


(だから俺は、今までの分を取り戻すために永を探してるんだ……!)
 速人は誰もいない、薄暗い路地裏を歩きながら歯ぎしりをする。
 永がいないまま、去年速人は年明けを迎えた。
 今年に限っては、速人がおせちを作った。
 毎年作ってくれた妹がいないから。
 もし居たとしたら永はきっと、毎年仕事で家を空ける父のためにおせちを作っておいただろうから、それもやっておいた。
 遣いたくもない気を大嫌いな父親に遣ってまで、速人は永の帰宅を待った。
 だけど、いくら永の真似事をしても、本人は一向に帰ってこなかった。
 そして三学期が始まった日、速人は永を探すことにした。
 元々大して当てにしていなかった警察と父では、永を見つけられないと思ったからだ。
 決心した日から、今夜のように放課後は永の行方の手掛かりを探した。
 学校やクラスの友達など、周囲の者への聞き込みは久と警察がやっているだろうから、速人は陸上部で鍛えた自慢の足を酷使させて、水那市中の永の目撃証言を集めることにした。
 
 そして、その結果がここにあった。

 学生が立ち寄らない店が並ぶ通りの、入り組んだ路地の奥。
 その深部にある廃ビル群。
 速人はその内の一つのビルの中に入っていく。
 この一帯に寄ると永ともう一人の海西学園の生徒が話していたと、とあるコンビニの店員から速人は聞き出した。
 このことを、速人は警察に知らせていなかった。
(どうせあの最低人間のオヤジとそのお仲間に教えた所で何もできないだろ。それに、もしこのことを知っていたとして、永の行方の手掛かりを一つも見つけられない連中に用なんかあるか)
 速人は最初から警察を頼りにしていない。
 だからこそ、こうして陸上部まで辞めてまで捜索を続けている。
 無人のビルの中で、速人の足音だけが響く。
(そういえばここの入口だけ荒らされてたけど、結局何もなかったな……)
 ひび割れた壁や、ドアも何もない開放されたビルの入り口を見ながら収穫が無かったことを思い出して落胆する。
 唯一得られた功績はまるで役に立たないものだったことが、あまりにやるせなかった。
 歩いていると、速人は廃ビルとある一室に着いた。
 隙間風だらけの欠陥だらけの部屋だ。当然この部屋もコンクリート製の壁と床と天井としか存在しないので、肌寒さしか感じなかった。
 速人は辺りを薄暗い中、床を睨みつけながら、寒さで震える唇で言葉を紡ぐ。
 紡がずにはいられなかった。
「なあ、永。お前はどうしてこんな所に来たんだ…………?」
 帰ってこない人間に、返ってこないだろう問いを投げかけた。
「こんな所に来なくちゃならなかったのか……?」
 こんな、何もない場所で。
 何も残っていない、こんな場所で。
 永は一体友人と何をしていたのか。
 速人はそればかりが気になった。

 そして、

 ドンッ

 と、建物が軽く揺れると同時に鈍く大きな音が鳴った。
「……?」
 鼠かと辺りを見回すも、何もいないように見える。
 いや、そもそも鼠が走っただけで建物が揺れるなんてあり得ない。
(もしかして変な連中が暴れてるのか?)
 この廃ビルエリアに来る度に、いかにもこういう人のいない所で好き勝手に暴れそうな連中を何組も見かけている。
 だが今の季節でこんな風通しが良過ぎる場所でたむろしようと考える物好きは、速人がここを訪れている間は見かけたことが無い。
 それどころかこの付近で人影を見たことが無かった、はずだ。

 ドンッ

 もう一回ビルが揺れ、腹の底に響くような大きな音がした。
「……一体何なんだよ」
 あまりに奇怪だ。人の気配は無いのに、音だけが木霊する。

 ドンッ

 更にもう一回鳴ったところで、速人は初めて違和感に気付いた。
(音が近くなって――)
 それを意識した途端、
 
 グシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア

 速人の立っていた床が、崩壊した。
「え――っ」
 一瞬の浮遊で、虚を突かれ、
 驚く暇もないまま、速人は 床が、けたたましい音を立てて、
 落下した。

「――っ!!!!!!」
 反射的に目を閉じて、すぐにやってくるだろう落着の衝撃に耐えるために、速人は全身に力を入れる。
 どこまで落ちるのか?
 もしかして一階までか?
 刹那でそこまでの危機感を催したが、その答えは違った。


「づっ!」
 無様に背中から仰向けに、速人は落ちた。
 背中の痛みを堪えながら目を開くと、そこにはさっきまで居た部屋と同じような殺風景があった。
 どうやらすぐ下の階だったらしい。
 元居た場所、上の階の天井が落ちてきたおかげで辺りはものすごい埃が舞って、さらに夜の闇で視認は難しかったが、落ちた時間と身体のダメージから、なんとなくそう判断できる。
 とはいえ、不意の出来事でまともな体勢で着地出来なかったので、打った痛みは強い。
(くっそ……! 一体何なんだ!)
 打撲に呻き、埃で咳をしながら、速人は床が抜けた原因が無いか探る。
 まさか自分の居た床だけが器用に抜けたわけでもあるまいと、立ち上がる。



 そこに、居た。

「まったく……はしゃぎ過ぎでしょ。少しは落ち着きなさいよ、この犬か馬か牛か分かんない奴」
 それは、紛れもなく人の、それも年若い女の声。
 突然のトラブルに頭が混乱した速人は、実は自宅で眠っているんじゃないかと錯覚した。
 そこにあったのは鎌。
 出刃包丁の何倍も大きく、刀よりも急激な角度で湾曲した、とても大きな刃。
 先は細く、しかし根元にいけばいくほど幅が大きくなっている刃は、速人と同じくらいの長さの太い鉄の棒にくっついていた。
 粉塵が舞う部屋の中、鎌の刃だけが煌めいていた。


「まさか、またここに居るなんてね。犯人は現場に帰ってくるっていうけど、同じ場所で犯行を繰り返すのはそういないでしょうよ」


 硬直したまま速人が仰向けに転がったまま動けないでいると、煙が晴れて、鎌の棒を握っている人間が見えた。
 鎌の持ち主というには鎌があまりに大きく、人間の方が鎌にしがみついている付属品にしか見えない。
 着ている服は、暗がりでよく見えないし、特徴らしい特徴は確認できなかった。ただ厚着をしておらず、単なる薄いジャケットとジーパンという、秋に入ったばかりの軽装らしいのは見えた。
 顔も暗がりでよく見えない。
 だが、頭には真っ黒な帽子、キャスケットがのっているのが見えた。
 そして、首越しにゆらゆらと黒い線が揺れている。
 おそらくは髪だ。首の根元辺りで切り揃えているのだろう。
 おそらく女。
 長身の速人よりも頭一つ分小柄な女だろう。
 服装、髪型、背丈。
 そこまでなら、まだ比較的普通であったのに。
 彼女の手にある巨大な鎌だけが異質だった。
「なんなんだよ……お前」
「なに? 誰かいるの?」
 しまったと速人が思ったときには遅かった。思わず口から出た言葉に、怪訝な色を混ぜた女の声が返ってきていた。
 得体の知れないどころではない、人間に声などかけていいはずもなかった。
 ゆっくりと鎌が近づいてくる。
(ま、まずい……!)
 速人は慌てて起き上がる。
 全身に痺れと痛みがまだ強く残っていたが、そんなことを考慮している場合ではない。この瞬間に起き上がらねば、近づいてくる刃で何をされるかわかったものではない。
「……誰よ?」
 必死になって立ち上がった速人の数歩前で女は立ち止まった。
 暗闇の中に長い間居たせいで、近距離ならば顔の造形が視認できた。
 その女は、若かった。
 年は速人と同じくらいの少女だった。
 だが、顔に浮かんでいる表情はおよそ年相応ではない。不機嫌に染まりきった、虫の居所の悪さという言葉を顔で表現しているかのようだった。
「誰かって訊いてるでしょ?」
「……っ!」
 女が怒りを押し殺したような声で、さらに速人に近づき、半眼で見上げてくる。
 身長の高さから速人は大抵の出会う人間に、下から視線を浴びせられてきた。
 そんな速人にとっては慣れきったシチュエーションであるのに、速人はその迫力に圧倒されてしまう。
 女が持っている鎌のせい、だけではない。己の生命を左右する物に脅えるのは生き物として当然である。
 だが、速人は女の目にも恐怖を抱いた。
 関わってはいけない。話しかけてはいけないと脳が命令しているのにも関わらず、
『どうしてお前はそんなに怒っているんだ』と疑問をぶつけたくなるような。
 深い、憎しみの目。
 女とは間違いなく初対面であり、こんな目を向けられる覚えは速人にはないのに、向けられている。
 疑問と恐怖が心を渦巻く中、出会ったばかりの女に、速人は精神的に屈しかける、
「…………ちっ」
 その前に、女の視線が速人から外れた。女の舌打ちと共に。
(え……?)
 女の黒目が移すものが、速人の背後に移ったのだ。


■■■■■■■■……!」


 何かの唸り声がした。
 興奮した犬のような、喧嘩をしている猫のような。
 即座に該当できない、奇妙な鳴き声。
 速人は思わず振り向いた。

 そこには馬が居た。


 全身が黒い。
 ただ黒い。額には稲妻のような傷も見える。
 毛の色は、夜のせいか、とにかく速人には黒く見えた。
 では身体が異常なまでに膨れ上がって見えるのは、どうしてだろうか?
 背中は、速人ほどの長身でも到底自力では乗れないほど高く、天井で擦ってしまいそうな程だ。
 首もその分長く太いのだが、馬は背中と水平になるように頭を下げているので、かろうじてこの廃ビルの中に入れている。
 しかしその異常な馬にとって、建物の小ささなど関係が無いのかもしれない。
 その馬は、自ら空けたとしか思えない、速人が落ちた部屋の壁の大穴の中にいるのだから。
「あーあ、見つかっちゃった」
 速人が馬の異常さに驚いている最中に、女はため息をこぼした。
「あんた、どうすんの?」
「え?」
 驚いて振り返ると、女を呆れたような顔していて、それからもう一度速人は馬のほうを見た。
 その馬は、速人を見ながら息を荒立て、涎を蛇口の水のように漏らしている。
 さらには、今にも疾走を始めたそうに右足でゴツン、ゴツンと地面を叩いている。
 まるで、赤い布を差し出され、興奮する牛のように。
(あんな、生き物が、俺に向かって突撃してくる?)
 凍りつく。
 現実にはあり得ない、現実の化け物の、自分で描いた想像に、速人は凍りつき、
「ほら、出口に向かって走んなさいよ。このままここにいると、」
 巨大な鎌という、非現実的な得物を持った女の声が、背中にかかった。

「殺されるわよ?」

「――――――!!!!」
 するりと。あっさりと。
 女の言葉は速人の脳髄に染み渡り、速人はまさに女の言う通り、廊下に繋がる部屋のドア無き出口に向かって駆け出した。
 怪し過ぎる女の言う事など聞く必要はなかったかもしれない。
 いや、本来なら話などする前に女の前から逃げ出すべきだったかもしれない。
 友好的な雰囲気でもないし、何より、一般人と割り切るにはあの鎌は剣呑過ぎた。
 馬からも女からも一目散に逃げるべきだったかもしれない。
 だが、あまりに危険度が高過ぎたが故に、速人は正常な判断力を失った。
 逃げるべき光景が、速人に二の足を踏ませた。
 故に、速人は今更ながらに逃げ出した今になって恐怖している。
 馬と鎌の女に。
 しかし、ありとあらゆる目の前に恐怖した速人は、まだ頭が回っていなかった。
 何故なら。
 速人は、漆黒の馬が背を向けて逃げる自分を追いかけることなど考えもしなかったのだから。


■■■■■■■■■■■■■!!!!!」


「……え?」
 獣の雄叫びとも人間の哄笑ともとれる不気味な馬の化け物の絶叫がした。
 その瞬間には、速人は部屋の出口まで走り切り、廊下まで逃げ出していたのに、
 その馬は、一瞬で速人の真後ろに居た。
 文字通り速人は馬の目と鼻の先まで距離を一瞬で詰められた。
 俊敏なんて言葉では片付けられない馬のスピードに、速人は疾走したまま振り返り、
 驚いた瞬間、
「う、あああああああああああああああああああああああ!?」
 速人はビルの外に体を投げ出していた。
 正確には一瞬でガラスの無い窓枠によじ登り、すぐさま地面へ飛び降りていた。
 ここが何階だったか。落ちても平気な高さだったか。
 人間の心理として当然のことを確認する前に、速人は飛び降りていた。
 そんな常識的なことを考えるより前に、速人は一刻も早く、あの奇怪な馬から離れたかった。
 一瞬たりともアレと同じ空間に居たくない。
 下へ下へと重力に引かれて落ちながら、速人は異常な焦燥に駆られていた。
「ぐ! は、あっ!」
 ズン、と地面に着地したときの衝撃で呼吸を詰まらせた。
 だが、幸いにも足から綺麗に着地ができた。
 廃ビルを見上げると、幸いにもあそこは三階か二階だったらしい。
「い、て……」
 それでも、十二分にはひどく脚部を痛めはした。なにせ下は柔らかい土の地面ではなく、コンクリートの地面だ。良くて捻挫、悪くて両足の骨にヒビが入っているかもしれない。動けもしない激痛は感じないので、骨折までには至ってないように思う。
(いてえけど、とにかくそんなことより逃げないと……!)
 命からがらの飛び降りの影響に苦しみつつも、脳裏から激突する直前まで押し寄せてきた巨大な影が離れることはなかった。
(一体、あれはなんなんだよ……!)
 誰でも良い、何処でも良いから怒鳴り散らしたい衝動がこみ上げてきた。
 意味も、状況もわからない、ただひたすら生命の危機を感じる地点から離れようと脚を再び動かそうとした。


■■■■■■■■■■■■■!!!!!」


「ぁ、」
 だが上空から、あの化け物の喚声が聞こえた瞬間に、速人の体が硬直した。
 すぐさま上に視線をやると、あの巨体が空中に躍り出ていた。
 丁度、速人の上に。
 その馬の姿を見て、速人が追いかけてきたと理解した時には。
 馬の体はもう、落ちてきていた。
「っっっっっっっっっっっっっっ!」
 脚は恐怖と痛みで咄嗟に動いてはくれなかった。
 速人はただ馬の落下を見上げることしかできなかった。
 しかし絶望の中、速人は少し奇妙さを目の当たりにした。
 それは自分を追っていた馬が落ちてきているのだが、落ち方がおかしい。真っすぐ速人を目がけてくるのではなく、横倒しに落ちてくる。
 それが何を表しているかを、速人が理解する前に、馬は落着した。
「……」
 ドンッ! と軽く地面が揺れる。
 速人のすぐ隣に、馬の巨体が横たわっていた。
 落下の衝撃にバランスを崩し、尻餅をついた。爪先から、僅か数センチ先に黒い体がある。
 間一髪、速人は馬の下敷きにならずに済んだ。
 その幸運は噛み締めるべきだ。
 だが、速人は全く喜べなかった。
 何故なら、追いかけてきたと思った馬は、実はそうでないと気付かされたから。
「……!」
 どうしてそんなことがわかるのか。簡単だった。


 速人の方へ首が向いているのに、頭がない。
 馬の首の先が、消えていた。


(こ、殺され…………!)
 あまりにグロテスクな光景に、速人は吐き気を催す。
 巨大な黒馬は間近にいる速人を襲ってくる気配、痛みで立ち上がる気配は勿論、毛ほども動く気配をさせず、ただ地面に体を横たわらせている。
(だ、誰に…………)
 こんな凶暴な馬の首など、誰が欲しがるのか。
 すぐに思い当たった。
(あ、あの鎌の女か……!)
 成人男性のウェストより一回り以上大きいこの馬の首を綺麗に切れる人間は、水那市全体を探しても他にいないだろう。
(一体何なんだよこの馬もあの女も! そもそもこいつらは何なんだ! 何が目的でこんなところに居て、こんな風に殺されて――――)
 そこで、速人はハタと気付いた。
 目の前の巨大な黒馬は殺されている。そう、確かに殺されている。
 綺麗に首は刈られている。それはもう見事に真っ平らだ。いっそ惚れ惚れするほどの美しい斬られ具合だった。
 その、断面の美しさがおかしい。
 首のスケッチできそうな断面。そこは、月明かりなどの僅かな明かりでも見える。
 そこから、一滴たりとも血は出ていなかった。
 ただただ、そこに模型のような馬の死体があった。
 その違和感に速人が気付いた時には、
 馬は、ゆっくりと立ち上がっていた。
「………………………………………………………………………………は?」
 そして、次に首無しとなった黒馬がした行動は、
 思い切り地面を蹴って、


 後ろに下がることだった。


 そして一瞬経過した後、
 ガキンッ、と馬がいた場所が鈍い音を立てた。


「ちっ。外した」
 舌打ちと共に、あの黒い帽子を被った、鎌を持った女が降ってきたのだ。
 巨大な鎌の刃を黒馬に突き立てるべく、
 上空から降下しながら、鎌を振るったのだろう。
 しかし、その試みは失敗し、女はかなり不満げな様子だった。女は鎌を持ち上げて、柄でダルそうにトントンと肩を叩いている。
「あ、そうそう。あんた、全然囮に使えなかったわね。このアホ、役立たず。どうして飛び降りるのよ。普通に降りてくれたら後ろから好き放題狙えたのに」
 帽子の下から再び女のイライラ顔が見えた。
 だが、今度気をとられたのはその顔面ではなく、女の言い草だった。
「お、囮って……どういう」
「うるさい。何も喋るな。なんの役にも立たないのなら、せめてあたしの邪魔だけはするな」
「っ――、」
 訊き返そうとした声は、あっさりと女に切り捨てられる。
 あまりに横柄な態度が、逆に速人の言葉を詰まらせる。
(こんな状況で、この女に文句を言っている暇なんてない……! じゃあ逃げるか……? くそっ! せめて何が起きているかぐらい教えやがれ!)
 心では大声で不平を叫ぶも、速人は未だ首無しのまま対峙してくる黒馬の威圧感で地面についた尻を持ち上げることすらできない。
 恐怖と痛みで震える足を無理に動かして逃げるべきだろうかと、この異常事態で何もできない人間なりの策を考案してみる。
(いや……ダメだ!)
 例え、日頃陸上部で鍛え上げていたこの両足が思い通りに動いたとする。いつものように全力疾走ができたとする。
 しかし、先ほどのようにあの黒馬に追突される可能性がある。
 そのとき、逃げきれることができるのか?
(無理に決まってる…………!)
 ビルの中で、一瞬で追いつかれた事実を思い出したせいで、速人は体を微動だにできなかった。
 そして、今速人に背中を見せて黒馬と睨み合っている女も、味方とは決して言えない。
 黒馬と敵対しているように見えるが、いや実際首を落としたようだから敵対はしているのだろう。だからといって、風当たりが強過ぎるこの女を到底速人は味方だとも思えない。
(この女に背を向けても大丈夫なのか……!? ここから逃げようとして、こいつが俺に切りかからない保証があるのか……!?)
 ひたすら命の危険に晒され続けているせいか、焦燥が濁流のように平静さが押し流され、次にとるべき行動が全くまとまらない。
 ただヘたり込んだまま、硬直する速人は、この異常な状況下においては、格好の的だったかもしれない。
 そのとき、対峙していた一人と一匹に変化があった。
 本当に、突然に。
 馬は走り出していた。
 だが、それは鎌を持った女に向かってではない。
 それどころか、速人に向かってでもなかった。
「あ、」
 鎌を持った女が、思わずといった調子で声をもらしていた。女にとっても予想外だったのだろう。
 馬は、後ろの暗がりに向かって走り出した。
 一瞬で反転すると、速人と女に無防備な背中を見せて、一目散に駆けだしていた。持ち前の巨体のせいか、蹄で地面を蹴っていく音がけたたましく鳴る。
「待て! 逃げんな!」
 叫びながら、女が慌てて追いかけようとする。
 だが、生態的に脚力が段違いな黒馬は、その間に闇に消えていった。未だ蹄が地面を叩く音が聞こえてくるも、人間の足では追尾することは叶わない。
 十数歩ほど走った女も、すぐに速度を緩めて立ち止まった。
 そして、くるりと回って、今度は速人の方へと歩き戻ってきた。
 無論、肩に大鎌を担いだまま。
「……!」
 思わず息を呑み、速人は慌てて立ち上がる。
 恐怖の根源だった黒馬がいなくなったせいか、思いの外スムーズに立ち上がることができた。
 だが、もう一つの根源である鎌を持った女が近づいてくるにつれて、速人の体の震えは大きくなった。
 ゆっくりと、女、そして大きな鎌は歩み寄ってくる。
 いますぐ逃げるべきかと、馬がいなくなる前と同じ問答に悩んだ速人であったが、
「……え?」


 全くの予想外に、女はあっさりと速人の横を通り過ぎた。


 まるで、横断歩道で偶然すれ違った、見ず知らずの他人のように。
 声をかけることもなく、一瞥すらなく、女は速人を無視していった。
 拍子抜け。
 あるいは、安堵。
 一瞬、それらの感情が速人の心を支配した。
 自分はやり過ごせたのだと。
 危機的状況を回避できたのだと。
 安易に喜び、
「――っ! おい!」
 その直後に押し寄せた、感情に押されて声を張り上げた。
 その感情は、怒り。
 目の前に存在しているのに頭上を舞う羽虫のように、見向きもされなかったことに対する、幼稚過ぎる怒り。
 すぐさま速人は振り向く。
 だが、鎌を抱えた女の背中は立ち止まらない。
 サクサク、テクテクと歩調を変えぬまま、速人から遠ざかっていく。
 女の徹底した拒絶ぶりに、速人はさらに頭を沸騰させ、女に駆け寄る。
 後ろから走り寄っているのにも関わらず、未だ知らん顔を続ける女の肩を、速人は掴んだ。
「待て! 何で無視するんだよ!?」
 同時に、肩を掴んで強引に振り向かせる。
「…………」
 女が反転すると、女の顔に先ほどの異常に不機嫌した顔は無かった。
 だが、代わりに何の感情も浮かんでいない、冷え切った視線が浴びせられた。
 その瞳に一瞬、速人は怯む。
「っ、あのな――!」
 しかし、すぐに威勢を取り戻す。
 聞きたいことは山ほどあった。
 馬、鎌、女の正体。
 山のように積み上がっている疑問。
 その一つ、何でもいいから一つを、速人は口から出そうとする。
「ガッ、」
 だが、女の行動は速人が口を挟むよりも早かった。
 鳩尾に、女のつま先がめり込んだ。
 一瞬の出来事だった。
 女は、まるで呼吸するように速人に蹴りを入れていた。
 躊躇いも容赦も、全く垣間見せずに。
「あれは、頭が良い化け物なのよ」
「…………っ!」
 腹を押さえて蹲る速人の頭上から、女の淡々とした声が降ってきた。
「だから、あんたが逃げようとしたら絶対にアレはあんたを追って殺そうとすると思って試したの。囮って言うのはそういうこと。あんたに隙を作ってもらおうとしたの。悪い?」
 速人に語りかける女の声は、心底どうでもいいことのように、当事者でありながら傍観者の口調のようだった。
「もしそれで怒ってるなら言わせてもらうけど、バカじゃないの? 見ず知らずの人間をどうしてわざわざあたしが命張って助ける義理があるか。グツグツーって頭沸いてんの? あーウケる」
「っ……!」
 嘲ろうとする気持ちが込められていないようなのに、無感動な声色はそれだけで速人の心を抉った。
 今この場で何もできなかった速人。
 ただみっともなく、逃げることしかできなかった速人。
 永が消えて、ただ当てもなく探すことが無い速人。
 生死の境という極限状態にあったせいか、それとも単に腹部の痛みのせいか。女は見も知らぬ他人なはずなのに、まるで速人の人生を覗き見られ、その価値の無さを嘲られた錯覚に陥った。
「……このっ!」
 言い返したい。
 今すぐ女の胸ぐらを掴んで怒鳴ってやりたい。
 目の前の女のような、怪しい人間なんかに、自身を否定なんてさせたくない。
 だが、不意打ち同然の一撃でそれすらも叶わない。
 まるで無力。
 女の罵詈雑言は続く。
「だいたい、ここが危ないってことを知らない方が悪い。何も知らないってことが許されるなら、誰もアレに喰われたりはしてないわよ」
(喰わ……れ? 何言ってやがるんだ……?)
 引っ掛かる物言いが気になったが、女はもう踵を返していた。
 鎌を背負ったまま、女の背中は遠ざかっていく。
「じゃあね、ドシロウト。二度と姿を見せんな」


「――――――――!」


 ドシロウト。
 その一言で、速人の頭の中は真っ白になった。
『邪魔はお前のほうだろうが。ドシロウトの一人でやる調査なんて捜査とは言わねえんだよ。それはただの『探偵ごっこ』だ。それすらもわかんねえのか?』
 それは、速人が。
 この世で最も憎んでいる人間が吐いた台詞と、奇しくも似通っていた。
 今度こそ、速人は本当にキレた。
 自己中心的な物言いと、平気で人の命を見捨てようとした女の態度は、この時だけは速人の記憶から抜け落ちていた。
 腹部の痛みすらも忘れて速人は即座に立ちあがって、
「テメーに何がわかるんだ!?」
 離れようとしていた女の後頭部に、渾身の力を込めて拳を振り下ろした。
 だが、その瞬間。
 女の背中は横に逸れて、速人の拳は空を切った。
 そして、速人の横に舞うように移動した女は、
「知るかボケ」
 両手で握りしめ、大きく持ち上げた鎌の棒の部分で、速人の頭を強打した。
「ガッ、」
 とてつもなく硬質な物体による衝撃に、速人は耐えきらず地面に伏す。
(この、やろう……!)
 不意を打とうとして、逆に打たれた速人はしかし、女への怒りはそのまま胸に秘めていた。
 もう一度殴りかかってやるという気概さえあった。
 だが、速人が何とか地面に手をついて顔を上げた時には、
「死ね、バーカ」
 女は大きな鎌を片手で振りかぶっていた。
 速人に目掛けられているのは、先ほどのような柄ではなく、刃だった。
「なっ、」
 頭上の鎌の刃の切っ先が、自分に向いている。
 それを速人が理解した時には遅かった。
 何故なら、女はもう、
 

 鎌を振り下ろしていた。

















 速人が、女に鎌を振り下ろされた、その三十分後。
 水那市の駅前。
 もう終電すら運航していない時間帯。
 しかし尚も人々が行き交って賑わい続ける、繁華街の中心地とも呼べる場所。
 そこを、ある女が歩いていた。
 黒いキャスケットをかぶり、まだ肌を刺すような寒さが街を渦巻いているのに軽装という周囲から浮いた格好をしていた。駅前をその女と同じようにうろついている人々は、自らの服装と比較して、彼女を白い目で見ていた。
 しかし、そんな季節外れの格好をした女の本性を誰も知らない。
 ――誰も、その女が身の丈よりも大きい鎌を振るっているとは、知らない。
 その女は、ズンズンと大股で、早足で街を歩いていた。
 意味などない。単純に女は苛立っていた。
(なんだったんだか、あのうっさい男は)
 すれ違いざまに誰かにぶつかるも女は平気で無視して歩き続ける。
 強く肩がぶつかってしまったが、謝る気分にはなれない。
 足取りがおぼつかない老人や子供ではなかったようだから、せいぜい気をつけろとさえ女は心の中で吐き捨てる。
「おい」
 女の背中に、乱暴な声がかかる。
 どうやら素行の良くない人間と衝突してしまったらしい。
(面倒な…………)
 ただでさえカリカリしているというのに。苛立ちが加速するとばかりに女は顔を顰める。
 もし変な因縁をつけるようなら、容赦なく殴り飛ばそうと決めて、振り返ると、そこには見覚えのある男が立っていた。
「こんな所で何がしてんだ、小娘?」
「げっ」
 ぶつかった相手を見るなり、女は顔面をひきつらせて後ずさる。
 その男は目の前に現れたのは、会社員のようにスーツを着込み、むさ苦しい無精ひげを生やしていた。
 見覚えはある。女にとって、知り合いの中年おやじだ。
 だが、決して会いたいと思っている人間ではない。
 名前は、神社久。
「こんな時間にまで出歩くなって条例知らねえのか、てめえは」
「知ってるわよ。ガン無視してるだけで。それと、警官がそんな口を利いていいの?」
「常識を忘れてるガキに説教くれてやるのは、大人の特権だ」
 呆れたように、かったるそうに久が語るも、女は聞き入れる気がなく、適当な返事をして流す。
 そんな態度に久は深いため息をつく。
 こんなやりとりを何度したか数えるのも億劫になったのだろう。女にも自覚はあるものの、それを直す気は毛頭ない。
「相変わらず胸くそ悪いガキだな。それよりもてめえ、危ない場所にクビを突っ込むんじゃねぇぞ?」
「もう遅いわよ。今も行ってきた後だし」
 こんな風に勝手に久が世話を焼こうとするのだから、知ったことではないのだ。相手は二十以上も年の離れた大人だが、女は一切遠慮などしない。
「ったく、最近の若い奴は全然大人の言うことを聞きやがらねえな。一昔前の刑事だったら殴れてるぞ、てめえみたいな大人の言うこと聞かない小娘はよ」
「そうなったらあたしもその警官を殴り返すわよ。んで一ラウンドTKO」
「口の減らないガキだな」
「一個しかない口が減ったら、あたしはテレパシー使えないとコミュニケーションできなくなるわよ。あんた馬鹿?」
「地域課のゴツいおっさん紹介してやろうか? てめえみたいなじゃじゃ馬の相手をすんのは慣れてるぞ、そのゴツ男」
「あーはいはい、もう帰るわよ」
 いい加減に、久と喋るのが面倒になってきた女はさっさと背を向けて歩き出した。
「『気分が変わらなかったら』、はナシだぞ」
「じゃあ今日は『機嫌が変わらなかったら』。きっと、多分、おそらく、変わらないわよ」
 最後の最後まで女は憎まれ口を叩き、人ごみに紛れて消えようとする。
「気をつけて帰れよ、大応の小娘」
「…………」
 だが、久の最後の言葉で女は足を止めた。
 そして、振り返って久をジロリと睨みつける。
「それで呼ぶな、おっさん。あたしは名字が大嫌いなの」
「若い女を名前で呼んでたら変な噂が立つだろうが。最近は中年のおっさんに厳しい世の中なんだぞ」
「それが嫌なら最初から話しかけんな」
「まったくもって口の減らないガキだな、可愛げなんか欠片もねえ。……ま、オレのガキ達も可愛げなんかない方だがよ」
「あんたの子供なんて一ミリたりとも興味ないから語るな。ウザい。勝手に子育てでもしとけ」
 フンと鼻を鳴らして、今度こそ女は去った。
 それが彼女の、
 大応遥の、変わり果てた日常は、今日も無事に終わった。



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