二月十六日・木曜日


 海西学園二年生の教室。
 朝のホームルームを終えて、一限目の教員を待つのみとなった生徒たちが各々好きなように過ごしている。他のクラスの邪魔にならないよう騒がし過ぎないよう意識しつつ、皆が適度な声量で雑談に興じている。
 そんな中、顔を曇らせている女生徒が一人居た。
 枝元智雨だ。
 ポニーテールと快活が特徴である智雨。その後者が今、失われている。その事に気が付いている智雨の友人たちは、智雨がじっと誰も座っていない、とある席を黙って見つめていることに何も言わない。
 沈んだ目で、凝視していることに。
 その席はクラスでも評判の、智雨が格段親しくしている男子生徒の席だった。
 その様子を智雨の近くに座る友人二人(共に女子)は、気にしていた。
「夢のん夢のん。念のために確認しておくと、あの席って神社君だよね?」
 前の席に座っている女子が体ごと後ろを振り返って小声で言う。
 名は相崎恵(あいざきめぐみ)。元気一杯で有名な彼女だが、今は真面目なトーンで話し掛けている。
「夢のんと呼ぶな、そしてそれは正解。智雨がずっとゾッコンの奴よね」
 恵に話しかけられているのは、彼女とは真反対に冷静が売りと言われる三島夢(みしまゆめ)。
「ちさめちんが云々は知ってるぜ相棒。ワタシらで何度『ちさめちんのラブラブ大作戦 ~ちさめちん激動編~』をやったと思ってんだい? くふふ、もう少しで三時間ドラマスペシャルの枠にも達しそうだということをお忘れか?」
「そうだったわね、うん……やったわね。…………そんな昭和の漫画臭いことを……。どうしてアタシはもっと早くに止めなかったかしら…………あんたの口車に乗ったことを後悔してるわ……」
夢は恵に振り回される苦労人というポジションというのがクラス内での認識だった。
「まあ夢のんの後悔は今に始まったことではないから良しとして、問題は神社君が居ないだけでどうしてあんなに落ち込んでるってことよ」
「さあー……当人同士の問題なんじゃない? 最近あんまり仲いいように見えなかったし」
「あ、もしかしたら手を繋ぐ繋がないで夫婦喧嘩したとか?」
「そんなことで休むって、どんな奴よっ。ていうか小学生かっ」
「なるほど、これが世に言われる痴情のもつれか……」
「あんたは真面目な話がしたいのかふざけた話がしたいのかどっちだっ」
 いつものようにじゃれあう夢と恵。
 しかしいつもなら二人に智雨が加わっている。
 その『いつも』から唯一外れている智雨は膝に両手をのせて空席となっている速人の席を見つめていた。
 ただ一人、悲痛な面持ちで。
(……速人…………どうして来てないの?)
 智雨が考えているのは一点だけだ。
 どうして速人は学校に来ないのか?
 単純に病欠ならよかったのだ。
 その理由が嘘であっても連絡の一つぐらいはある。その連絡が智雨への直通でなくても、だ。
 しかし担任はホームルームで速人本人から連絡が来たとは言っていないし、むしろ無かったことに少々憤慨していた。
 速人の自宅には現在、速人と父親しか住んでいない。
 そしてその父親は娘の捜索という、とある事件を抱えて帰ってきても真夜中。家を出ていくのは昼夜問わずという状況であるため実質的には速人の一人暮らし。
 つまり、今すぐに速人の近況を知ることの出来る人間はいないのだ。
 そう思った途端、不意にぞっとした智雨はホームルームが終わると速人の携帯電話には何度もかけてみた。
 だが何度コールしても繋がらないし、留守番電話とメールでいくらメッセージを残しても気づいて返事をしてくる気配もない。
 思い切って速人の父親、久にも携帯電話で尋ねてみた。
 だが久は昨日一度会っただけで、その後のことは知らないと言われた。
 息子に一日中連絡がとれないという些か重大な事態に陥っているのに対して、それは冷た過ぎるのはないかと思いはしたが久と速人の親子関係はコレが平常なのだ。
 それは今更智雨が口を挟んだところで解決できるべくもなく、また今は解決している暇はないので、智雨は一言礼を言うとすぐに通話を切った。
 そして、今に至る。
 今も速人の身を必要以上に案じている智雨。
 そこまで心配する理由は一つ。
 ――もしかしたら永と、同じ目に遭ったのではないか?
 速人の妹、神社永。
 去年の十二月、消えてしまった速人の妹だ。
 彼女は自ら失踪、家出をするような人間ではない。
 無表情、無口でわかりづらいが非常に責任感がある良い子だった。
 家族に何も告げず出かけたり日課である家事を放り出して何カ月も遊び歩くような人間ではない。
 だから智雨は何らかの犯罪に巻き込まれたと考えた。
 水那市で凶悪犯罪が起きたという話は聞いたことがないが、それ以外に永が帰ってこない理由が見当たらない。
 ここで問題なのは、速人もそう考えていたことだ。
『あいつが俺達に黙って家を、それも前触れもなく出ていくはずがない。どっかのクソヤローがあいつに何かしたんだ』
 その素性もわからない誰かを呪い殺してやると言わんばかりの、速人の据わりきった目を智雨ははっきりと覚えている。
 速人は永のことを話す度にそんな目をしていた。
(……お願い……無事でいて……!)
 智雨は膝の上にのせていた両手で、スカートの裾を握り締めた。








「永……?」
 速人は見つけた。
 妹、神社永を。
 真っ暗な空間。
 何の光も差さない、地面も空も何もない虚無の空間で。
 神社永の背中を見つけていた。
 生きている家族の中で一番大切な存在を、いなくなってしまった最愛の妹を発見できた。
「永、だよな……?」
 光がないのに、永の後ろ姿を鮮明に網膜に映すことができていた。
「永!」
 地面もないのに、直立している永の背中を追うことができていた。
 速人は全力で駆けていた。
 最も大切な、欠けている家族を取り戻すべく。
 暗闇の中をグングンと走り、動かない永の背中に迫る。
 もう二、三歩。
 あと、少しで手が届く。
「――――永っ!」
 速人が顔を綻ばせた、そのときだった。
 大きな鎌が現れたのは。
「――――っ、」
 黒く、大きな刃を輝かせ、ソレは永の頭の上に出現した。
 反射的に速人は立ち止まってしまった。
 その一瞬後、
 鎌が煌めき、短く風を切る音がした。
 永の頭上にあったはずの鎌が、斜めに振り下ろされた。
 速人がそう認識した、その瞬間に、
 永の首は、落ちた。
 ボトリッ、と。
 壊れた人形のように。
 そうなるのが必然だったように。
「――――――――――――――――――――――――――――――」
 速人は床に落ちた永の後頭部に、息を呑んだ。
 叫ぶこともできず、吐しゃすることもできなかった。
 ひたすらに、目の前の光景が信じられずに。
 その、体だけとなった永が立っている奥。
 そこに、帽子をかぶった少女が薄ら笑いを浮かべていた。
 それは、あの馬の化け物と共にいた、
 鎌を持った女だった。
 ――ああ、お前が殺したのか――
 湧きあがる怒りと、殺意を、速人は腹の底に感じた。
 だが女は冷笑を浮かべながら、速人のことを歯牙にもかけず踵を返した。
「――! 待てこのやろ、」
 暗闇の中、速人は慌てて追いかける。
 ――こいつだけは許さない。
 ――永を殺したこいつだけは許さない。
 ――絶対に復讐してやる。
 ――俺の大事な家族を奪ったお前だけは地の果てまで追いかける。
 ――俺をいつも支えてくれた永を殺したお前だけは。
 心の中で呪詛を唱えた速人は、
 ふと、気付く。
 真上に鎌があることを。
「――」
 その瞬間、速人は確信した。
 ――ああ、永の次は自分の番だったのか。
 怒りと、驚愕。
 二つが入り混じった顔をしながら、
 速人は目覚めた。






「――――――――!!!!!!!」
 文字通り、速人は飛び起きた。
 上半身を勢いよく跳ねらせる。
「え、おわっ!」
 その拍子に体を滑らせ、どこからか落ちた。
 ドンッ、と衝撃が臀部、すぐに全身へと伝わった。正直、かなり痛かった。
「~~っ!」
 不意の痛みに、涙目になった代わりにすっかり寝起き特有のまどろみはどこかへと去った。
 欠伸とは違う涙を堪えながら、速人は目を開ける。
 目の前に知らない男が立っていた。
「キミは元気だねー。重傷で寝込んでたってのにさー」
 楽しそうな声を上げた男は、奇怪だった。
 男は若く、二十代前半といったところで人相は良い。人当たりの良さそうな柔和な笑顔を浮かべて、糸目を逆Uの字にしている。顔も整っていて、大した好青年ぶりだ。おそらくどこの誰が見ても悪い印象など抱きそうにない善人っぷりだろう。
 だが髪の毛は真っ白だ。
 一点の濁りもなく白く、元々何色の髪だったのか、その名残を全く悟らせないほど鮮やかな白色だった。ファッションだといって人工的に変色させたにしては不自然なほど、自然な白。
 そして一番おかしいのは、目に優しい顔とはまるで対照的な派手な赤。形は理科の教員が着用する白衣なのだが、それが見ていると眼底が痛くなってくるような赤色に染まっている。
 その『赤い白衣』の下には真っ黒なスーツと黒いネクタイ、いわば喪服。
 白、赤、黒。
 速人の目の前に立つ男は、配色を間違った信号機のようだった。色合いはそれよりも数倍不気味だが。
「…………誰だ?」
 まるで心当たりなど無い奇怪な男を見上げて、速人は素直に首を傾げた。
「うわ、タメ口なの? キミよりもずっと年上だよー」
「はあ…………それはすみません」
 白い髪をした、赤い白衣、黒の喪服を着た、奇妙な男が笑顔のまま責めるような口調になったので、速人はなんとなく謝った。
「別にいいよ、どうでも。キミがボクをどう呼ぼうとまるで興味もないし、ていうかキミの生死そのものがかなりどうでもいいしねー」
 あははーと今度は肩をすくめて声を上げて笑いだす、白と赤と黒の男。
「…………はあ」
 呼吸をするように軽視されたが、わけのわからない男だったので気にしなかった。
 とりあえず立ち上がりながら辺りを見回す。男は思ったより背が低く速人より十センチほど低かった。
 ここはどうやら建物の中らしい。窓がない四角くそれなりには広い部屋だ。さっき速人が落ちたのはパイプ製のベッドだったらしい。はだけたシーツがそれを証明している。壁際にはたくさんのガラス棚があり、その中にはこれまたビンがたくさん入っている。
 これだけビンがある場所は学校の理科室ぐらいだが、それとは比較にならない量がある。またビンのサイズも大小さまざまで、大きいものはバスケットボールぐらいのサイズ、小さいのは子供の小指サイズまで。各ビンによくは見えないが白いラベルに手書きで何か書かれている。
 部屋にあるのはベッドとそのガラス棚。後はどこに通じているのかわからないドアが二、三。
 まるで設備の悪い保健室みたいな部屋だった。
「…………ここはどこなんですか?」
 今更ながらに自分が置かれた状況に警戒しながら速人は男に尋ねた。
「ボクの診療所の地下入院施設という名の実験室?」
 どこかふざけた調子の答えだったが、速人が気になるのはそこではなかった。
「診療所って……医者なんですか? その『なり』で?」
「あははー失礼なことを言うねキミは。まるでどこかの遥くんだよ、まったく」
「せめてその真っ赤な上着が白かったら医者にも見えるんじゃねえのか?」
 無礼とは思いつつも、男から真面目な態度を取る気がないのが何となく伝わって来たので、速人は敬語を外す。
「あはははー、そうかもねー。まあ、キミの意見なんかどうでもいいけどー」
 男はあくまで愛想よく笑い、愛想の悪い言葉を吐く。
(どう見ても良い人間には見えないな…………つうか何なんだコイツ? どこにもマトモらしいマトモがねえな)
 風体と言動が怪しい。
 この男に関しては信用できる要素が一切見当たらなかった。
「ん? んん? うわー、もしかしてボク警戒されてる? いやだなー、キミみたいな普通の人間なんかに興味なんかないのにー。そういう自意識過剰ってよくないと思うよー。若さゆえの無知ってのは仕方のないことだと思うけど、自分の小物加減ぐらいは悟っておいてもいいんじゃない?」
「……随分と言いたいこと言ってくれるな」
「うわっ、随分と簡単に挑発の乗り方だね。ぶっちゃけ、わかりやす過ぎて引くよ。もう少し頭の良い怒り方できないの?」
「できたところで、あんたにわざわざしてやる義理はねえよ」
 あからさまに意図的な男の驚いた振りに、速人はさらに苛立ちを募らせる。
 ここまで腹が立ったのは久と話しているとき以来だ。簡単に怒ってしまった自分に非があるのも理解しているが、それを差し引いても男の言動はふざけている。
「それよりもあんた何者だ? 何で俺はこんなところにいる? もしかしてあんた、俺を誘拐したのか?」
「誘拐って……キミには一切の興味を割いた覚えはないって言ってるのに全く信用してくれないなー」
 男はやれやれだーと声に出して嘆く。しかも顔に手を当てるというオーバーアクションで。
 そんな男の挙動一つに、いちいち怒りを蓄えさせながら速人は怒鳴る。
「じゃあ何で俺はこんなところにいるんだよ!? 俺は――」
「大怪我して気絶してたって?」
 手の隙間から声を出す男。
「――っ! そうだよ!」
 鎌の女のシルエットが脳裏を描き、体を一瞬だけ硬直させた。
 しかしこの飄々とした男の前では弱みを見せたくないという実に少年らしい理由で速人は強気の姿勢を崩さなかった。
「……まー、めんどいけど説明しなきゃ怒鳴るの止めてくれなさそうだよねー」
 速人の震えた心を気づかない男は肩をすくめた。
「ああ、ボクは凶月凶(まがづきまがお)。医者だよ」
「変わった名前だな。本当に日本人か?」
「そりゃそうだよ。偽名だし。こんな名前、市役所じゃ認めてもらえないよ」
「…………とりあえず殴らせてもらっていいのか?」
「容赦ないねキミ。ボクが治療してあげなかったら軽く全治数ヶ月だったのに」
「信用できるか。現に俺はピンピンしてるだろうが」
「本当だよ。ボクは患者に診察に関する嘘はつかない。後々メンドイからね」
 ニッコリと、凶月は逆に不安になるような満面の笑みを浮かべる。
「どうだか。そんなに重傷だった割に体がすこぶる調子がいいんだが」
「そりゃボクが治したから。まあ、そのために丸一日眠っててもらったんだけど、それは正解みたいだったね」
 凶月は『赤い白衣』から全身が銀色の刃物、メスを取り出してトントンと手のひらを叩いた。
「ボクとしては普通の男の子なんて、つまんない患者はすぐにポイしたいからすぐに完治させたかった。だからキミを眠らせ続けて全力で治療をしたんだ。キミはどうやら高校生みたいだから早期完治のほうがよかったよね? 学校を長く休むと騒ぎになるしね」
「治された後で文句を言ってもしょうがないだろうが。抗議したら時間を返してもらえるのか?」
「あっはっは、それはそうだ。ごめんごめん」
「……!」
 同意するように凶月は笑った途端。
 いきなり凶月はズブズブとメスの先で頭にめりこませた。
 本当に、何の前触れもなく。いきなり自分自身を脈絡なしに刺した。
 突然のショッキングな光景を見せられた速人は息を呑む。
「しっかしキミの怪我、酷かったよ。あくまでも一般人のレベルでの話だけどさ。背中の骨にヒビ入ってたし、その影響で内臓もアレだったし。ま、全部治したんだから良いんだけどさ。一体何やったらあんな風になるの?」
「…………」
 喋っていく間にもメスの刀身はどんどん凶月の白髪の茂みに潜っていく。すでにメスの半分以上が頭部に埋まっている、それなのに未だ笑いながら話しかけられる凶月。
「う…………っ」
 思わず速人は口を押さえて呻く。
 やはり、凶月は異常だと速人は思う。
 それは単に口が悪い、赤と白と黒の外見が奇怪、といった簡単に想像が及ぶ範囲のことではない。
 刃物を頭部に突き刺しピンピンしている所、それもまた違う。凶月の異常さはそこではない。
 奇怪。
 立ち振る舞いが気持ち悪い。
 笑いながら悪意を放ち、生きながら死に直結するようなことをする。
 ただただ、気持ち悪い。
「だからねー、そこらへんの事情を教えて欲しいんだけど。って、あれ? 具合悪くなった? おっかしいなー、ボクの医者としての力量は世界随一なのに」
 完全にメスを頭部にストンと沈めた凶月は速人の様子がおかしいことに気づく。
 気づいて、そしてベロリと。
「んじゃ、またまた診察しないとねー」
 口に手を入れて、新たなメスを取り出した。
「……っ!」
 速人がもう一度驚愕に目を見開いたその時、
「先生……メスの出し方……です」
 ふと割り込む声があった。
「――!」
 脂汗をかいていた速人、速人に手を伸ばしていた凶月も反射的にそちらを振り向く。
 いつの間にかここ――凶月曰く『入院室』――のドアが開いていた。
 そこに人形のような少女が立っていた。
 年はおそらく十を過ぎて数年といったぐらいの幼さに見える、しかし皺ひとつない綺麗な肌。日本人と異なった彫りの深い、欧州人の顔。
 極めつけは目に痛くない程度に染まった柔らかな赤色の髪に、赤い瞳。
 自然にそうなるように生まれたとは思えぬほど、狙いすましたかのような美しさを持った少女は髪よりずっと濃い、むしろ黒に近い真っ赤なドレスを着て、そして弱々しい目で凶月を見ていた。
 赤という瞳にしては異質な色彩だが、まるで小動物のような少女の瞳に速人は吸い込まれそうに――、
「でもメスの出し方より……先生本人が……気持ち悪いです」
「…………」
 吸い込まれそうになる直前で速人は現実に引き戻された。
 一見して気弱げ、儚げな少女に似つかわしくない言葉のチョイスだった気がする。
「気持ち悪い……先生……死んでくれませんか……? 最近先生を見てると……吐き気がします」
「…………ひでえ言い様だ」
 思わず速人は呟いた。
 見た目はただの少女で、口調はお世辞にも押しが強いなどと言えなく、声量は集中して傾聴しなければ聞き逃しそうなくらいにしか出していない。カブト虫と戦わせたら間違いなく一本角の昆虫の方に軍配が上がりそうなほど、少女は儚く脆い存在に見えるのに、
「先生……一度……死んでください」
 吐き続ける毒舌のせいで、色々と台無しだった。
(つうか、さすがにそんなこと言ったらこいつもキレるんじゃ……)
 ちらっと速人は凶月の様子を窺うと、

「リネちゃーん!!!!!!!!!!!」
 速人のことなど脳内の片隅にすら残ってないと言わんばかりに、少女に飛び付いた。


「いやー今日もキミは可愛いよボク好みだよ最高だよエロいよエロカワだよだからもういっそ標本にしていいかなこのままキミが年老いて醜く腐り果てるなんて勿体ないそれは世界の損失でありひいてはボクの大事な宝物が一つこの世から消えさることでもあるからしてそんなことはどんなことがあろうとも許せないことだよ世界のどこかにいる神様がキミの時間を進めて十二歳という最高の時間をキミから奪おうとするならボクはその神を焼き殺してたっていいよだから標本にしていいかな!?」


「…………………………………………………………………………」
 絶句した。他にどうしろというのか。
 今の今まで覚えのない悪意によって速人をコケにしてきて、メスを人間のすることではないやり方で玩んで、自分を恐怖させていた大人の男が十代になったばかりだろう少女に抱きついて求愛行動をとっているのだから何を申せと言うのだろうか。
「先生……鬱陶しいです」
「うーん! 例えリネちゃんだったらツンデレだろうとヤンデレだろうと一向に構わない! キミが十二歳以下であるのならば!」
「……」
 黙って二人のやりとりを見ていた速人はポケットから携帯を取り出して、1,1,0、と順番にプッシュする。
「最近はロリコンも大胆な犯行に出るようになったな。まさか堂々と自宅に未成年誘拐して、その人質を野放しにしておくなんて……いくら警察が無能でもこんな奴ぐらいは捕まえられるだろ」
「って、待った待った。キミは何をしてるんだい?」
「人として正しい行為だ。だから携帯返せ」
 いつのまにか目の前に戻って来た凶月が、速人の携帯を取り上げていた。さすが犯罪者、そういう行動だけは速いらしい。
「いやま返すけどさ。キミ、具合良くなったの?」
「ああ、あんたのおかげでな」
 そしてその原因もメスを醜悪に扱っていたあんただがな。
 最後の言葉は呑みこんでおく速人だった。
 この男ならむしろ喜んで受け入れそうな気がしてムカつくからだ。
「ならいいんだけど。このボクが直々に治してあげたのに全快してくれないなんて人間は許せないし。いたら殺しちゃうしねー」
「うるせえ、黙れこのロリコン。さっさと俺がどうしてこんな所にいるのか教えやがれ。いい加減お前の妄言に付き合うのは疲れてきた」
 再び自分の調子を取り戻した速人はつっかかる。
 それを余裕の笑みで凶月はやり過ごす。
「ひどいこと言うなキミは。これでも一応はキミの主治医なのに。けどボクは何も知らない。ボクはリネちゃんがキミを連れてきたから治療したまでさ」
 ねっ、と凶月が横目で背後に立つ真っ赤な少女に問いかける。
「はい……その通りです……ご迷惑でしたか?」
「え、いや……そのことを覚えてないから困ってるだけど……」
 その見知らぬ赤い少女に話がいくとは考えてなかった速人は少々動揺する。自分を揶揄、蔑む、嘲笑う、年長が取り柄なだけの人間には礼儀をとってやらないのが速人の信条だが、まさか小学生ほどの少女までにそのような振舞いで対応できるはずがない。
「えっと……要するに倒れてた俺を君が連れてきてくれたんだよな?」
「そゆこと。彼女は覚えの無い事情のわからないキミを善意でここに連れてきてボクに治療するよう依頼した。そしてボクは何も聞かずに治療した。それだけだよ」
 すらすらと凶月が補足するのを聞いて、速人は多少安堵した。
(じゃあこいつらはあの鎌女とも化け物とも関係のない人間で、俺に害意はないってことか……)
 気を張って損したと息をもらす速人。そこに凶月が嬉しそうな声を上げる。
「あーしかし、リネちゃんは偉い! こんな無駄に背が高くて生意気で図々しくて己の器を弁えない無作法な男の子を助けるなんて!」
「うるせえ。堂々と変態発言するあんたよりはましだ。それより診療代って幾ら出せばいいんだ?」
「うん? どういうこと?」
「だから怪我して倒れてる俺を、医者のあんたが治してくれたんだろ。それにかかった金を払うって言ってるんだよ」
 自称ではあるが医者が治療したというからには、当然その診療報酬が付くと思い、速人は尋ねるが、
「今保険証とかないから家に取り戻っても――」
「ああ、そういうこと。お金はリネちゃんから貰うから要らないよ」
「え?」
 凶月はあっさりと首を振った。やたらと自分が治してやったとアピールしていただけに驚く。
「紹介が遅れたけど、彼女はレンド・リネールっていうんだ。可愛いでしょ?」
 同時にリネールがぺこりと頭を下げたので、速人も小さく会釈をする。
「……あの子に肩代わりさせるって、どういうことだ?」
「そのままの意味だよ。今回キミはボクの治療を望んだわけでもない、ボクも治療を望んだわけではない。望んだのはリネちゃんだ。だから治療を望んだ彼女に請求するのが筋だ。良かったねーハッピーハッピー♪」
 あの細身で、日本人の平均身長を楽に越している速人を運んできたとはとても思えないのだが、 他にこんな場所まで運搬してくれる人間に心当たりはないので納得するしかない。
「俺がここにいる経緯はわかったけど、それでいいのか?」
「良いも何もボクは合意の上でしか診療は受けない。他人に運ばれた気絶中の急患人を完治させた後で、その患者にお金の請求をするほど恥知らずではないよ。人でなしではあるけどね。だからここはリネちゃんに感謝でもしておく良いよ」
「その、リネールはそれでいいのか?」
 念のためリネールに水を向けると、こくりと頷かれる。
「はい……問題ありません」
「…………」
 見ず知らずの他人を救助して、さらにその後の診療代も肩代わりしてくれる。
 つまり、リネールはそう言いたいわけだ。
(なんだか怪しい団体の勧誘法みたいだな……)
 この後に恩を着せられるようなことがあるかもしれないと速人は懸念するが、
「さて! じゃあリネちゃんにはボクが買ってきた数々のコスプレをしてもらおう!」
 ご機嫌となった凶月が床の板を外した。すると、床下が収納庫となっていたのか色々な服があった。もう速人のことなど眼中にないような調子だった。
「まずは何からいこうか! 今の赤いドレスも猛烈に可愛いけど、やっぱりスクール水着は幼女の王道だよねなんか家屋の中で着用する水着って淫猥だと思うんだけどリネちゃんはどう思う?そういえば一度論文に纏めてみたのだけれど学会では誰も耳を傾けてくれなくて困ったよ頭に来たからその記憶を消してやったよそりゃそうだよボクの『スクミズを着た少女と、その姿を観察する医者の健康状態』という偉大な論文に心を動かされない奴らなんかボクの偉大な論文の一文字たりとも覚えておかせはしない――」
「本当に……先生……気持ち悪いです」
 おろおろしながら毒を吐くリネールに、速人は心の中で同意する。
 外見がハンサムで柔らかな印象を抱けるだけあって、どうしてもそのギャップが散々だ。
「……俺、もう帰っていいのか?」
 翻弄される外国人美少女と、その周りで小躍りする変態医者から弾かれた速人はぽつりと呟いてみる。
「いーよいーよどうぞどうぞ」
 大人の男が所持するにはおおよそ問題が多々ある水着を握り締めながら、凶月は片手でしっしっと追い払ってくる。
 こんな人間に律義にもお礼の金を払おうとした自分が馬鹿に思えてきた。
「ああそうか、じゃあな。もう二度と会いたくない、クソ医者」
 軽く頭に血を昇らせながら速人は、入院室から出ていった。



「本当に丸一日やってやがるし……」
 入院部屋を出て、天井に等間隔で一本だけの蛍光灯が照らしているだけの薄暗い、人が二人すれ違える程度の幅しかない廊下を抜け、そこから上に向かって続く階段を一段一段上がりながら速人は携帯電話で時間を確認していた。
凶月の言った通り時間は約一日。
 意識を失ったのが昨日の真夜中。そして今は夕方。
(馬の化け物に襲われて……鎌の女に気絶させられて……目覚めたら偽名を使う医者と外人のちびっ子がいて…………散々だな。つうか…………階段長いな)
 昇り始めて二分が経過しても終わりが見えない昇り階段に辟易しながら、速人は心で呟く。
 整理して考えると、自分がどれだけ非現実的な出来事をたったの二日で体験してきたのがよくわかる。始まりから締めまで全てがおかしい。
(怪我をしてないことが唯一の幸いだけど……)
 正確には治された、だが。凶月曰く本来は全治数カ月。それが一日で完治したらしいが。
(どんな早業だ。人間業じゃないだろ)
 凶月凶。あれは人生で絶対に関わってはいけない部類の人間だった気がする。無論、性癖的な意味もある。
 だが、その表層的な面に隠れた内面が最も怖い気がする。
(いや……それを言うなら化け物か。あんなのに追いかけ回されて我ながらよく無事だったな)
 それに。
(あの鎌女……一体何者だったんだ?)
 永が消えた場所で出会った一匹と一人。
(無関係とは言いづらいけど、あんなのが永と関わってたとも思えない。永は普通の人間だったんだ)
 一体、あの十二月の日に何があったのか。
 状況を振り返っている間に速人は階段の最上部に来ていた。ずいぶんと長ったらしい階段だったのは言うまでもない。どうしてこんなに地下深くに入院を要する患者のための部屋を作る必要があるのか疑問に感じてならない。もっとも凶月なら「うん? 患者への嫌がらせだよ?」とか言い出しそうだ。
(…………あの医者のことはいいんだ。とにかくあの鎌の女の方は何か知ってるかもしれないから、あいつの方から探してみるか)
 そう決意した所に、
「凶月―、あんたようやく上がって来たの?」
 聞き覚えのある声が、階段の先から速人の鼓膜を揺らした。
 それは忘れたくても忘れぬ声。
 文字通り、夢にまで見た人物の声。
「……!!」
 速人は誰の声か、それを脳で判別した途端に駆け出していた。
 まるで小山の頂上へと続いているような、無意味に長い階段を抜けた先。
 そこは本当に小さな診療所の体(てい)をなしていた。
 右手側には受付がある。初診、再来。受付係は誰もいないものの、きちんとカウンターが設置されていた。
受付の正面にはガラス製の自動ドアの入り口があり、夕日が差し込んでいる。どうやら今は夕方らしい。
 患者もスタッフもいないようだが、凶月の言った通りここは診療所なのだろう。
 だが、それはどうでもよかった。
 速人が驚愕したのは無人の待合のソファーで、一人寝転がる人間に見覚えがあった。
 その人物は軽度の暑さにも寒さにも順応できるような中途半端な服装をしていて、頭には黒いキャスケットを被っていた。
「入り口に急患中って札が掛ってたけど、一体なんかあったのー?」
 ソファーの上で仰向けになりながら、その女は大きな欠伸を漏らした。
 それは紛れもなく、あの鎌を持った女だった。
 次の瞬間。


 凶月凶の診療所ロビーにて。
 人が、二人争い合う音が響いた。


 その数十秒後。
 一階で響いた騒音を聞き付けた人間が地下から昇ってくる足音が階段より吐き出された。
「なになにボクの診療所一階でドッタンバッタンと騒がしい音が聞こえてきたんだけどもしかして幼女の国の妖精さんたちがボクを迎えに来たのかな!」
 一人の大人として頭を抱えたくなる内容の叫び。
 凶月が地下から上がって来た。
 彼の視線の先には、

「…………っ!!!!!」

 首元に巨大な鎌の刃を突き付けられ、大量の脂汗を肌に浮かばせている速人と、

「凶月……こいつ、なに?」

 巨大な鎌の柄を握っている黒帽子の女がいた。
 凶月は女に睨まれたのを察し、大いに肩をすくめた。
 自身の妄言を本気で信じていたのか、声はあからさまに落ち込んでいた。
「いやいや。ボクがどうのこうのとかおかしくない? というか遥くん、キミが何? 一体全体どうして今し方治療してあげた謎の少年A君を取り押さえているのさ?」
「さあ? いきなり胸ぐら掴まれたから反撃してるんだけど、大方昨日の仕返しってことなんじゃないの? まさかここに運ばれてるとは思わなかったけど」
 ふうと息を吐いて、女は得物で捕えた獲物を見定める。
「――――――――――――――っ!」
 昨夜と同様の絶対零度の瞳に睨まれ、速人は呼吸ができなくなる。
 このまま鎌を持つ手が引かれれば、その先には絶命しかない。そんな当り前の事実が頭の中に浮かぶ。
 しかし速人は怯みつつも口を動かした。
 この女には尋ねたいことがあったから。
 それは速人にとっては最重要事項だったから。
「お前なんじゃないだろうな……!」
 絶命の危機を前にした速人の声は、衰えきった老人のように掠れていた。
 しかし目の前の女には届いてくれたらしい。
 鋭い眼光を放ったまま、女は首を傾げた。
「なんのこと?」
「永が姿を消したのは…………お前だって訊いてるんだよ……!」
 全力を振り絞った問いかけに速人はすでに精神力の限界にきていた。
 あっさりと化け物の首を落とした鎌を突きつけられている状況下では、速人の精神がすり減るのは当然の理である。立っているだけでも最早精一杯なのだ。
 だからといって閉口などしていられなかった。
 妹の失踪という異常事態に現れた、異常生物と戦っていた異常な女。
 もしかしたら永の失踪に何か関わってるかもしれない。
 それは速人にとって望まない関連性かもしれない。
 もし目の前の女が、持っている鎌で永を――したと言うのなら。
 それは決して考えたくない、考えないように努めていた可能性ではあったけれど。
 絶対にこの女を――してやる。 
 速人は殺意に晒されながらも、女への疑念にまみれていた。
 だから、女のリアクションは拍子抜けするものだった。
 あっさりと鎌を引いたのだ。
 自然な動作で、あっさりと手元に戻し、文字通り消した。
 手品かなんなのか判断しにくかったが、速人にとってはどうでもよかった。次の瞬間に言った女の言葉が問題だった。
「……知らない。誰ソレ?」
「俺の……妹だ」
 鎌が離れたことに安堵して、速人は首を撫でながら言う。
「まずあたしはあんたが誰かもわからない。それなのに知るわけないんじゃない?」
「…………俺が教えて欲しいのはその鎌で人を……俺の妹を斬ったことがあるんじゃないかってことだ」
「ないわよ」
 当たり前じゃない。
 女はそう言った。言い切った。
 懸念していた可能性を一蹴された。
「んなことしたら殺人罪で捕まるっつうの。いくらあたしの鎌が自由自在に出し入れできるって言っても、警察が調べたらあっという間に凶器は出ないまでも逮捕状ぐらいは出るわよ」
「警察は無能だ」
 反射的に速人は口を挟んでいた。
 一瞬、女がぎょっとした顔になる。
 しかしすぐに仏頂面に戻る。
「いや、どうでもいいから。あんたの価値観なんて」
「そうだな……」
 確かに今の事態とはまったく関係のないことだった。
「じゃあ…………お前は俺の妹とは関係がないんだな?」
「しつこい。あたしはあんたの妹とは関係ない。ナッシング。オッケー?」
 肩をすくめてヘラヘラと女は笑う。
 正直肩すかしを食らった気分だった。
 確かに女の言うとおり、あんな鎌で人を斬った日にはどれだけ繕ってもボロが出るだろう。
 警察は役立たずだと速人は認識しているが、殺人など凶悪犯罪に対する検挙率は高い数値を誇っている。まさか目の前の年齢がさほど変わらない女が凄腕の殺し屋で、証拠隠滅に長けているなどということはないだろう。だったらそもそもいかにも犯罪が起きそうな廃ビルに永が向かったなんて証言は残さないだろう。
(って、何で俺はそんな悪い方向にばっか考えてるんだ? 永は死んだわけじゃないんだ)
 そう、まだ永が死んだと決定したわけではない。
 それだけは信じない。
「で、訊きたいことってそれだけ? だったら帰ってくんない?」
「もう一つある。何で昨日俺を襲った?」
「あんたが突っかかってきたから。あんなのとやりあった後だったから頭に血が上ってたの。だからウザイあんたを殴らずにはいられなかった。それだけ」
「むちゃくちゃ短気な奴だな」
 速人は思い切り顔をしかめた。
 数度挑発されただけで凶月に嫌悪を抱いた人間の台詞とは思えなかったが、速人にその自覚はない。
 女は速人を睨み返す。
「うっさい。とにかく、あんたとは関係ないの。わかった?」
 このまま立ち尽くしていれば唾でも吐きかねない女の顔。
 巨大な鎌を自由自在に出現させる人間の機嫌を迂闊に損なわせたくはない。
「なら、」
 だから速人は女の次点の存在について尋ねた。
「あの化け物について教えろ」
 その途端、女の雰囲気が変わった。
 いや、鎌を出現させていた時に戻ったと言える。
「……何が『なら』なのよ」
 歯を砕かんばかりに噛み締め、抜き身の刀のように鋭く険しい顔つきになっていく。
「何であたしがそこまでサービスしなきゃなんないのよ。あれはあたしの獲物、横取りしようとしたらぶっ殺す」
 執念の塊。
 女の声がまさにそう呼ぶに相応しい。
 もしくは怨念そのもの。
 女は虫の居所の悪さが初期設定だった。怒って問い詰める速人に対して苛立ちしか抱いていなかった。
 だがこのときは明らかに憎しみをもって速人を睨みつけた。
 恐ろしい、と今まで一番強く感じる。
「………………何であんなのがこの町にいる?」
 しかし速人とて引くわけにはいかなかった。
 まったく手掛かりのない永の行方を知るには、おそらく真っ当な手段では知り得ないと予感していた。
 そして尋常ならざる生き物と人間に出会ったのだ。
 チャンスかどうかも怪しい、もしかしたら永とは無関係な事件かもしれないが、転機であることだけはわかる。
 女の視線に晒されながら、速人は畳みかけるように質問する。
「あれは何なんだ? お前がなにもないところから鎌を出せるのと関係あるのか? 何であんなのがうろついていて誰も知らないんだ?」
「図々しい」
 速人の質問攻めを、女は一蹴する。
「何あんた? 自分の都合しか考えないわけ? アレはあたしの獲物って言ってるでしょ? あれが何であれ、いずれあたしが消す
の。わかる? あと何日か経ったらあれは死ぬの。だからあんたが何を知ろうがそれこそ関係ない」
「うるせえ。それこそお前の都合だ。俺が訊いてるんだ。あの馬の化け物は一体何なのか洗いざらい喋りやがれ」
 止めの言葉。
「はあ……」
 すると、重く息を吐くと、コキリコキリと女は拳を鳴らし始めた。
「………………あー、もう駄目だ限界の限界。もう我慢できない」
 一歩一歩床を踏み砕くかのように歩いてくる、
「気が変わった。あんたはあたしと何の関係もないけど、ボコボコにしておかなきゃ気が済まない。今度は顔の骨を折る、脚の骨も砕いて歩けなくしてやる」
 言いながら女は歩み寄ってくる。
 同時に女という名の脅威そのものの接近に、速人は一気に冷や汗を掻く。
「……やれるもんならやってみろよ」
 完全なハッタリではあったが、この己のことしか眼中にない女に弱みを見せることだけは許せない。
 最悪逃げられるように脚に力を入れつつ、速人も拳を構えた。
 が、
「はーいストップストップ」
 白と赤と黒の変人が、割り込んできた。今まで静観していた凶月凶である。
「盛り上がってるところ悪いけど、さすがにこのボクが治療してあげた少年Aくんに危害を加えさせるわけにはいかないなー」
「おい。俺には神社速人って名前があるんだよ。少年法に守られた犯罪者みたいに言うな」
 速人は凶月を睨み上げる。
 ヘラヘラした顔がこちらを向いた。
「限りなくどうでもいいよキミの名前なんて。ていうか体を張って止めてあげたボクに対してお礼とかないの? 本当にキミはむかつくねー」
「木偶の坊とかで十分でしょ。デカイだけで弱そうだし」
 ハッ、と鼻で女が笑う。
 軽くむかついた。
「なんだと帽子鎌女。お前は大道芸人だろうが」
「やばっ、本気で無意味に殴りたくなってきた。凶月、ほんとどいて。そいつに土下座させて謝らせないと気が済まない」
 すでに速人は実力差を考えずに女と一戦交える気になっていたが、そこは凶月が頑として通さなかった。
「あーだから大人しくしててよ、このボクが特別に名前を呼んであげるからね。速人くんにー、遥くんー?」
「気持ち悪ぃ。凶月何とかさん、俺の名前を猫なで声で呼ぶなよ」
「気持ち悪っ。頭叩き割って死んでくんない?」
 何故か女と悪態がハモってしまった。それもまた気持ち悪い。
「うわー、本当に憎らしいなこのガキたち。ボク自ら血祭りにあげていいかなー?」
 凶月はあくまで笑顔だった。言っているように怒っているのかは謎だ。
「ていうか、どうしてあんたがその木偶の坊を庇うのよ? そもそもなんでこいつを治したとか言ってるわけ?」
 女はあくまで敵意満点だった。凶月にすら飛びかかりかねない目をしている。
「リネちゃんの依頼だったからだよ、キミと同じ。個人的にはどうでもいいけどさ、リネちゃんに後で文句言われたら困るんだよ。もう報酬は貰っちゃったしさー」
 凶月が何故かそこでいやらしくニコっと笑うと、女は目を見開いた。そして速人に目を移し、じっと見つめる。
 気のせいか、女の怒気が萎んでいったと速人は感じた。
「………………そういえばリネちゃんは? あの子に用があったんだけど」
「今は日の光が出てるから一階には上がってこれないよ。キミも知ってるでしょ」
「ふーん……やっぱり不便ね。リネちゃんの体って」
「んで、遥くんは速人くんの加害者ってことにいいのかな? 何があったか知らないけど、リネちゃんに迷惑をかけないでくれるかな? あとボクにも」
「あんたに限っては、むしろ率先して迷惑トラブル持ち込んでやるわよ」
 フンと鼻を鳴らすと、女は二人の横を通り過ぎて診療所の入口へと歩いていく。
「何処へ行くんだよ? 話は終わってねえぞ」
「帰るの。もうなんか、色々とままならなくて疲れた」
 自動ドアが開くのを待っている女の背中が小さく見えた。
「あの化け物の事とかは凶月やリネちゃんによろしく。どうせあんたにどうにかできるとは思えないし」
 わずかに速人を振り返った女は小馬鹿にするように笑うと、さっさと歩いて出て行った。
 引き止めることもできない事実に、速人は女の後ろ姿に舌打ちした。
「本当にムカつく女だな。どこをどうしたらあんなに性格悪くなるんだ」
「いや、キミが言うことじゃないよね。むしろボク的にはキミの方がムカつくよ」
 異常性癖者であるこの男に、人としての内面にとやかく言われる筋合いはないと思う。
 さて、と速人は凶月から数歩離れた。
「あんたがあの女の代わりに説明してくれるんだよな?」
「えー? やだよ」
 凶月は子供みたいな声を出した。
「どうしてボクがただキミに情報提供しなきゃいけないのさ。ボクに物を頼む時は可愛い女の子の絵画でも用意するんだね。勿論十二歳以下。漫画はダメでも絵ならセーフって聞いたことあるし」
「危ないオッサンだな……」
「見た目はオッサンでもないし、別に女の子に性的興奮を催してるわけじゃないよ。神秘的、神々しさの問題だね。変に成熟した女の子がドラゴンの生贄になったりしないでしょ? それに年齢を言うなら赤ちゃんが真っ裸で天使として描かれてる方がボクは危険だと思うけど。『キミら一体何歳までが守備範囲なの!?』って言いたくなるよ」
「知らねえよ」
「逆に問いたいんだけど、もしゲームで『村を乗っ取ったゴブリンたちに捧げられた四十代後半の女性を救え』的なクエストやりたい? ちなみにボクは吐き気を催すから絶対に触れないイベントだね!」
「心底どうでもいいし、あんたの趣味嗜好は法律で禁じられちまえ。今の日本には禁忌に近い」
「まったく……幼い子供に厳しい世の中になったねー」
「いい年した大人に厳格な世の中になったんだよ」
 というか、本当に話が進まなくて困る。まるで異世界の住人と話しているようだ。凶月の興味の対象は速人にとっては未知の領域だが。
「はいはい、わかったわかった。まあとにかく、リネちゃんにも上がってきてもらおうか。速人くん、そこのカーテンを閉めてくれるー?」
「面倒って言ったらどうなるんだ?」
「別れの挨拶を交わそうとするね」
 なら選択肢なんかないと速人は言われるまま、窓のカーテンを閉めにいく。
 一方、凶月は入り口の方へ行く。
 何をするのかと目をやると、赤い白衣のポケットから泥のような色合いをしたボール状の物体を取り出した。
 気味が悪い人間が気味悪い物を取り出したなと思ったら、凶月はいきなり泥玉を入り口の自動ドアにぶつけた。
「……あんたは自分の診療所を汚して遊んでるのか?」
 とことん意味不明過ぎると呆れていると、凶月はニヤケ顔のまま首を振った。
「いやいや、ちょっとばかり入り口にもカーテンを付けようと思ってね」
「は?」
 本当に意味不明だった。
 だが、すぐに疑問は解消される。
 本当に泥のように入り口にベタリと、雫を垂らしつつ張り付いた球。
 それがいきなり爆発した。
 爆発は爆発でも火炎や物体の破裂を伴うものではない。
 しいて言えば闇。
 泥の球から急激に黒の色が速人の視界を染め上げた。
 本当にあっという間で反射的に目を閉じ、再度開けたときにはすでに辺りは暗闇に包まれていた。ちなみに一気に日が沈んだわけがない。
 どうなってるのかと声をあげようとする前に、カチンッ、と音がする。
 診療所の蛍光灯が点灯したのだ。
 凶月が愉快気にクツクツと笑っているのが目に入る。
「ま、本当は店じまいの合図でもあるのさ。今日はもう仕事する気は起きないから良いよね?」
「……俺に確認をとれても困るんだが」
「キミのために閉めるんだから、キミが決めてくれないとー。ああ、カーテンを閉めてもらったのはなんとなくだよ。単なるキミへの嫌がらせだから気にしないで」
「ほんと性格悪いな、あんた」
 いっそ清々しくなって怒る気もしなくなってきた。
「ボクは興味のあることしかしないだけさ。性根が腐ってるとか色々言うのは他人であるキミ達が勝手に下す評価だ。ボクはそれを歯牙にかけない。歯牙にかけないからボクはやりたい放題なのさ」
 子供かと速人が言い捨てると、
「先生は……子供です」
 階段からひょこりと赤い髪の少女、レンド・リネールが出て来た。
 服装は真っ赤なドレスから変わっている。
「メイド版リネちゃんのご登場! はい拍手! 可愛いでしょ可愛いよね可愛過ぎるよね可愛いという言葉しか似合わないよね!」
 すかさずリネールの横に移動した凶月が叫んだ通り、真っ赤な少女は黒のワンピースと白くフリルの前掛けの二つを組み合わせた服、メイド服を着込んでいた。
「メイド……です」
 何の真似か、ちらっ、とスカートを僅かに上げてポーズを決めている。
 本物のお人形メイドと本物の変態が目の前にいる。
 かつてない頭痛が襲い来る中、速人は冷静に己のすべきことを失念せぬように注意する。
「可愛いと言えなくもないが今の俺にとってはかどうでもいいし、もっと重要なことがあるんだから邪魔しないでくれ……」
「可愛く……ないですか?」
「え? いや、だから可愛いとか今は関係なくてだな……」
「可愛く……ない……で、すか?」
「何で泣きかけてるんだ!?」
 本当に意味が分からなかった。
「そりゃそこの階段の陰で『遥くんと速人くんが喧嘩してるようだね。諌めるにはリネちゃんが萌えアピールするしかない。二人の和解はキミの可愛らしさにかかってる』って、脅かし混じりにボクが得するようなことを吹き込んでおいたからさ。かくしてリネちゃんは自分が可愛くないと速人くんの怒りが収まらないと思ってしまってねー」
「あんたが慌てて飛び出してきたのは嘘だったのかよ!」
「この診療所で喧嘩するような人間は今のところキミらだけだから階段上がる前から気が付いてたよ。キミらの因縁については知らなかったけどさ」
「ひっく…………ひっく…………! 可愛く……なくて……ごめんなさい……!」
「なーかしたーなーかしたー、はーやとくんがーなーかしたー♪」
「良い大人が下らねえ冷やかししてんじゃねえ! っていうかいい加減本題に入らせろお前ら!」
「私……可愛くなくて……ごめんなさい……! 速人さんを怒らせて……ごめんなさい……!」
「しまった怒鳴ったのは逆効果か! くそ、本当にめんどくせえなチビっ子って!」
「速人くんはボクとは真逆で幼女にも厳しいんだねー。ちょっと引くかも」
 お前は一生黙ってろと心で怒鳴りつつ、速人はリネールの頭を撫でる。永が幼かった時はこうして落ち着かせたものだと感傷に浸りそうになるが、とにかく今はリネールを落ちつかせることにする。
「俺はお前が心配するほど怒ってないし、リネールは自己嫌悪なんかする必要が無いほどすごく可愛いから泣きやんでくれ、な?」
「うん良いねえー、泣いた顔も可愛いよリネちゃん! ついでに速人くんが幼女を泣かした証拠写真としても使えるし良い事尽くめだよ!」
「あんたはあの鎌女より先にぶっ飛ばす!」
「ふええええ……怒ってます……」
 心底めんどくせえ二人組だと怒鳴りかけたい衝動にかられる速人だった。



 そして三分後。
 泣いた後なので赤い目をしたリネールと凶月と仲良くソファーに腰掛ける速人だった。
「まー、ぶっちゃけるとね。ボクは魔法使いで微妙な闇医者の凶月凶。微妙な闇医者というのは気にしないで。説明し始めるとメンドイからさ」
「吸血鬼の『贋族(がんぞく)』……レンド・リネールです……ぐすっ……」
「…………」
 実にさらりと信じられないことを打ち明けられた。
「ボクらの正体は今言った通りなんだけど信じる? 信じちゃう? こんな与太話信じる?」
「信じないって返事した方があんたは楽しそうだな」
「そりゃね。遥くんに押しつけられた説明役なんて喜ぶわけないでしょ。リネちゃんに委任されたならともかくさー」
 凶月はあの鎌女のことがそんなに好きでもないらしい。そこだけは速人も凶月に共感できる。
「まあ……馬の化け物とか見たし、鎌をいきなり出せる変な女もいるし……むしろあんたらが真っ当な人間の方が驚く」
 しかし吸血鬼と魔法使いとくるとは思わなかった。
「しかもあんたみたいな反社会的かつ変態的な人間が魔法使いって夢も希望もない話だな。今すぐ改名したほうがいいんじゃないか?」
「酷い言い草だなー。ボクは素直に生きる良い子なのに」
「単に自分本位なだけだろ」
「ちなみにリネちゃんはボク好みの良い子なのに!」
「…………」
 あの遥と呼ばれていた鎌女より凶月の相手は疲れる。話の腰をいちいち折るからでもあるし、言動がいちいち引っ掛かるし。
「先生……寄らないで下さい」
「そんなツンも守備範囲だよ! デレてくれれば言うこと無し!」
「先生にデレはないです……一生ないです……一瞬たりともないです」
 涙目で凹みつつも、凶月嫌い嫌いアピールは止めないらしいリネール。隙を見せたら調子づきそうであるから賢明な判断だろう。
「リネール……こんな奴と一緒にいて疲れないのか? というかどうしてこんな所にいるんだ?」
「私……ここに住んでるんです」
「…………今すぐ逃げ出した方がよくないか? 警察とかに駆け込んだ方がよくないか?」
「失礼だな速人くん。ボクはリネちゃんを保護してるんだ。わかる? ボクはリネちゃんの親代わりと言っても過言では――」
「それは絶対に嫌です……」
「またツン貰っちゃった♪ てへー♪」
「…………」
 本格的に気持ち悪い男だった。
「ああ、ちなみにリネちゃんは吸血鬼だから日の光は浴びれないんだよ。だから遥くんとキミが喧嘩したときも出てこれなかったというわけさ」
「吸血鬼か…………こんな子が人の血を吸って生きてるのか?」
「はい……でも別に血じゃなくても平気です……ケーキとかそういうのを食べて生きています」
「それは本当に吸血鬼なのか?」
 全然違う気がする。
「彼女は特殊な吸血鬼でね。元々吸血鬼っていうにはふさわしくないんだよ。リネちゃんを分類するにあたって何がふさわしいかと考えたら、人々は吸血鬼と考えた。だから吸血鬼と呼ばれてるのであるだけさー」
「……ま、俺としてはあんたらが魔法使いでも吸血鬼でもなんでもいいんだけどな」
 無論この二人が永と直接関わってなければの話だが。
「それより嫌がっていたわりにはよく喋るんだなロリコン」
「ボクは基本的にお喋りが好きだからね。あと褒め言葉を有難うツンデレくん。ちなみにボクにはデレないでね。キモイから」
「安心しろ、お前に心を許すことは一生ない」
「だろうね。しかしキミの聞きたいことを語るにはボクでは役不足だ。だってボクはキミが言う馬の化け物を見たことがないし知らない。おそらくアレについて詳しく知ってるのは遥くんだけだよ」
「じゃあ、あの女のことについてだけでも教えろ」
「ボクが教えてあげる義理はない。情報料でも払ってくれるなら話は別さ」
「情報料?」
「そう、労働に対する正当な報酬。ボクがタダで遥くんの正体を教える義理はないからね。ついこの間タダ働き同然の診療をさせられたっていうのに、これ以上骨折り損のくたびれ儲けはしたくないしね。ああ、遥くんを診た時のことだよ」
「あの女の?」
「彼女を診療したのはその最初の一回きりだったけどその一回が問題でさー。さぞかし高名な組織の魔術師だと思って、てっきり診療代を大層ぼったくれると思ったのに、まさか一般人だとは思わなくてさ。おかげでその時は不覚にも格安の代金で済ませて、不覚にも慈善事業の真似事で人を救って参っちゃったよ」
「……」
 仮にも医者が言うセリフではない。
「おかげでついでと言わんばかりに魔術のレクチャーも無料でさせられて鬱だったなー。『有り金全部やる』って死にかけた声で言われたら、そりゃ普通の金の亡者は動かない? 動くよね、ああ騙されたー。いやね、包丁一本しか持ってなかったから変だなーとは思ってたんだよ? でもさー、まさか人外相手に包丁で戦いに行こうなんてアホなこと考える女の子がいるとは思えなくてさー。『包丁はきっと魔力を失ってしまった武器だ』とか深読みしちゃったんだよー。あーあ、あのときは本当に最悪だったー。前に会った五人組の応援かと思ってさー」
「……あの化け物に、包丁で? でも、あの女は、」
 鎌を持っていたはずだと言いかけるが、凶月はブンブンと手を振った。
「おっと喋り過ぎた。あまりに遥くんのことが憎らしすぎて、つい口が滑りに滑ってジェットコースターだった。ここから先はお金をもらうよ。五十万円から相談に応じようかー」
「学生に払える金額じゃないな。まけろ」
「呼吸するように上から目線で命令してくるね。ちなみに嫌だよ。ボクがキミの事情を鑑みる理由なんてないし、ボクは人の言うことを素直に受けるのが嫌いだ」
 これ以上は本当にタダでは動く気がないらしい凶月はニコニコと笑いながらこちらの様子を見つめてくる。
 中身を確認するまでもなく、速人の財布にも預金通帳にもそんな大金は入っていない。
 もうここから出ていこうかと検討し始めていると、不意にリネールが口を開いた。
「あの……速人さんは……どうして遥さんとその獲物さん……が気になるんですか?」
「ん? ああ、言ってなかったか。あいつらは俺のいなくなった妹の手がかりかもしれないんだ。 去年の十二月に行方知れずになって、それからずっとな」
 獲物さんとはおそらく化物のことだろう。あの女がそう言っていたのを思い出す。
「妹さんが……遥さん……もしくは獲物さんが殺したと……考えていますか?」
 オドオドしている割に、リネールは鋭い事を言ってきた。
 吸血鬼かどうかはともかく外見は幼い子供なので素直な答えを口にすることが憚られたが、リネールの瞳にどうして鬼気迫るものを感じ、速人は間を空けて答えた。
「…………それもある。どう見ても物騒だからな」
「もしそうだったら……どうするんですか……?」
「殺す」
 次の問いに対しては迷いがなかった。
 それは決定事項だからだ。
「復讐してやる。永の敵を討つ。あの女も化け物も殺す」
「うわー、うわー。過激な発言だね。キレた若者は怖いねー。でも遥くんもその化け物くんも、キミよりずっとおっかないし強いよ?」
「関係ない。俺の、唯一の家族を殺したんだったら誰だってその命で償わせてやる」
 それは心の底からの本音だ。
 父親はすでに父親と見なしていない。だから唯一の肉親である永は何よりも代え難い宝だ。
 だからそれを奪った人間、生物は許さない。
「そう……ですか…………」
「それがどうかしたか?」
 元々良くはなかったが、一層歯切れが悪くなったリネールを睨むように見る。
 しかし彼女はゆるゆると顔を横に振ると押し黙った。
 明らかに物言いたげな様子ではあったが正直綺麗事に耳を貸せる余裕など速人にはない。理屈で解決できるのなら苦労はしない。
 また、家族を理不尽に奪われるのなら理屈などに心を傾ける必要などないからだ。
「そうかー。なら無料の情報提供もやぶさかではないよー」
 不意に凶月が喋った言葉に速人は目を見開いた。
 それは完全な前言撤回である。
 さらに、ふんふんと頷く凶月は驚きの言葉を発する、
「いやー、今の時代って人を助けることが流行ってるからねー。袖すり合うもナンタラって言うしねー♪ うん、キミの言葉にボクは胸を打たれたよ! よし、何でも聞きなさい! ボクは困ってる人を見過ごすなんてできない! この凶月凶が、キミの役に立たない駄目駄目な遥くんに代わって力になるよ! だからもうボクの知ってる遥くんのことを全部聞かせてあげるよ!」
「は、はあ……」
 急にやる気になった凶月に速人は戸惑う。
 散々渋っておいて百八十度の方針転換など相手が凶月凶でなくとも胡散臭い。
「先生……もしかして……遥さんの嫌がらせ?」
「え?」
 同じように驚いていたリネールの質問に速人は思わず固まる。嫌がらせとは何の何に対するものなのか。
「速人さんに……遥さんのことを喋れば……遥さんの邪魔をするだろうから……違う?」
「うーん、バレちゃったかー。リネちゃん賢いよー。うん、そう正解正解大正解―! それ拍手ーパチパチパチパチー! ほらクラッカーを持って、パンっとお祝いだー!」
「えっと、どういうことだ……?」
「つまりキミは化け物について知りたい。でもボクは化け物のことを知っている遥くんしか知らない。しかしボクが遥くんのことを話せば、化け物について知りたいキミは化け物を追ってる遥くんに迷惑をかけるだろう。そうなるとボクはキミという厄介事を押しつけてくれた彼女の復讐のために無料で情報を提供しちゃうよってこと。いやー人の不幸でご飯が美味しいなー。今日は赤飯炊いちゃおっかーリネちゃん♪」
「先生……最低……です」
「……性格ねじ曲がり過ぎだろ」
 あの女は本当に真剣な面もちで、速人の介入を嫌がっていた。
 出会ったばかりの速人ですら感じ取った空気を、元々親交があったらしい凶月は尚強く嗅ぎとれただろう。
 いや、そもそもの事情を知っているはずだろうに。
 それなのに、喜んでその妨害をしてやろうと公言しているのだ。
 しかし速人にとってはその最低な心変わりが有り難いのだから何とも救いようのない話である。
「じゃあ、まず最初にあの女は何者なんだ?」
「名前が遥ってことくらいしかボクにはわかんないよ。名字が面白いっていうのは覚えるけど」
「面白い?」
「大きく応じるって書いて、ダイオウって言うらしいよ。面白いねー。まるでイカだよイカ。ああ、ちなみに普段は学生らしいよ。どこの学校かは知らないけど。確か高校一年生だっけ?」
 あの女は一歳年下だったらしい。その割には威圧感が二十歳は上に感じられたが。
「それであの鎌は何だ?」
「魔術だよ」
「…………」
「ちょっとちょっと。『うわ、こいつまさかファンタジー用語使えば押し切れるとか考えてるんじゃねえの?』みたいな疑心暗鬼に囚われた瞳で見られても、それが事実なんだからしょうがないでしょ。つい最近まで一般人だったらしいけど、彼女には素質があるから突然使えるようになったらしいね。ま、使えるのは『自由自在に鎌が出せる』魔術だけどさ。その魔術の名前は『心影』っていうんだけど速人くんにとってはどうでもいいかな?」
「ああ、どうでもいい。問題はその元々一般人で今は魔術師だっけか。そんな奴が追ってる化け物は……わからないんだったっか?」
「だね。さっきも言ったようにボクは直に見たことがないから、もし対面したら心当たりがあるかもしれないけれど、それを言われても困るから言わないでね。直感だけど、多分どっかから野生の魔獣が町に入り込んできたんじゃないのかな? 普通ならあり得ないけど、ゼロパーセントと言い切れるかって問い詰められたらノーと言うしかないからね」
「なら何処へ行けばあいつに会えるんだ?」
「えっとね、まず遥くんは件の化け物くんを追っているんだからやっぱり比較的人目に付きにくい場所になるだろうね。魔獣といっても所詮は獣。人を怖がるのが獣の習性だから繁華街には寄りつかないだろうね。ボクの推理では日中は廃ビルが固まってる所とかに潜んで下水道を通って移動していると遥くんには話しているよ。
 つまるところ、いかにも犯罪が起きやすい所を遥くんは探しているとボクは読んでる。というか人目に付くような場所に居るのなら大騒ぎになってるからね。もしかしたら魔獣は、普段は魔術を行使して姿を隠匿してるかもしれないけど、遥くんはその程度で止まるような子じゃないから基本的には街を出歩いてる。遥くんを探すのに適した時間帯は夜。うん、これは間違いない。どうしてかと言われると魔獣は基本的に夜行性だからフラッと街を歩くかもしれないと遥くんに伝えてある。
 おっとこれは忘れちゃいけない。彼女は絶対にあの黒い帽子を被ってる。服は変えるよ、女の子だし。だけどあの帽子だけは絶対に変えない。だからあの帽子を覚えておけば絶対に遥くんを見つけることが出来る。彼女はポリシーでもあるのか、あの帽子は絶対に脱がないしね。
 これが、ボクが知る限りの遥くんの最近の行動だよ」




「すんごくお喋りになったな……」
 凶月のお陰でボロボロと零れ落ちる埃のように、どんどん女の行動が露わになっていく。
「いやいや、こんな情報しか出せなくて心苦しい限りだよ」
 悪事を働いてるというのに本人は喜色満面だった。
 一瞬善人かと間違えそうになるが、凶月は紛れもない悪人だということを速人は再度心に深く刻み込む。
「じゃあ……最後に」
 これが最も重要な質問だろうとぶつける前から速人は嫌な予感がしている。
 おそらく聞いて気分が爽快するような話ではない。
 だけど知っておかないといけない気がする。

「その化け物に、あの女は何をされたんだ?」

 これで全てがわかる。
 どうしてあの女が化け物を獲物と表現するのか。
 あの化け物が何をする化け物なのか。
 そして、化け物を異常なまでに敵視する女の態度の理由が。
 返ってきた答えは、おそらく凶月の性格の悪さが最も滲み出た答えだった。


「遥くんはその怪物くんに友人を殺されて、その化け物くんに復讐を企てているのさ。ああ、ちなみに彼女は死体を回収したそうだから間違いなくその友人は死んでいるそうだよ。正確にはバラバラになった下半身だけらしいけど。怖い話だねー」


 本当に凶月凶は性格が悪い。
 よりによってこの先復讐者となるかもしれない速人に、同じ復讐者である女の邪魔をさせようとしているのだから。
 凶月に好感を抱くことはないだろう。速人は絶対的な確信を持った。



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