二月十七日・金曜日
朝。
神社速人はいつも通り目が覚めた。
いつも通りとは、自室の布団で起床し、自身に課した時間で目を覚ますこと。
しかしこの朝は、全ていつも通りではない。
一昨日から昨日は見知らぬ場所で寝て過ごしていた。
凶月凶(まがづきまがお)。
『赤い白衣』に白髪、喪服の黒を纏った医者と言い張る謎の男の元で。
それは一昨日のこと限定で、昨日はしっかりと速人は自宅の自分の部屋で就寝した。
当然のことだ。自覚はなかったものの大怪我を負っていたから、あの診療所とやらで世話になっていた。しかし快方に向かえば当然帰宅する。
そう、普通に帰宅した。
そして、速人は普通ではない時間に起きた。
午前十時十分。
「………………………………………………………………遅刻だ」
畳の上に敷かれた布団の中で、枕もとに置いておいた携帯電話のサブディスプレイの時計を見ながら、速人は一言だけ呟いた。
遅刻も遅刻。大遅刻だ。食パン咥えて通学路を走っても転校生にぶつかることはあるまい。
寝起きの頭で、そんな下らないことしか思い浮かばなかった。
(……だいぶ変わっちまったな)
誰がと問われれば、自分がだ。速人はのっそりと布団から抜け出しつつ、狭い階段を通って二階から一階へ降りる。
(部活は一昨日辞めたけど、朝練はここ最近出てなかったからな。習慣がなくなるとこうも変わるか)
前はこんなことはなかった。
朝六時前に起きることが陸上部に在籍していた速人の常であったし、万が一寝坊すれば狼狽して朝御飯をスキップして学校に猛ダッシュをしていただろう。
それが今では。
寝ぼけ眼で一階のキッチンへ行き、冷蔵庫から牛乳とチーズを出して、食パンを棚から引っ張り出し、食事用のテーブルを無視して、団欒の場であるリビングのソファーに腰をかけて朝食を摂っている。
寝間着から着替えず、洗顔もせずに食事をする速人には行儀もなければ、品もない光景であった。
しかし問題は、速人がそのことに何の疑問も抱いていないということであり。
この家には、もう彼を注意してくれる人間がいなくなっていたことだ。
速人は食パンの上にただチーズを乗せただけの主食に噛みつきながら、己の唯一の目的ばかり考えている。
(今日の学校は…………顔だけ出しておくか。どうせあの役立たずは息子の学校に欠席の連絡なんざしてないだろうし。教師を怒らせて家庭訪問にでもなったら面倒だ)
冷静に、自分の目的だけのことを考える。
(んで……その後。あの帽子の女を探しに行こう。顔も特徴も大体の居場所も割れてるんだ。本気で探せば日曜までには見つかるかもしれないな…………それでも見つからなかったら…………)
もしゃり、と食パンの最後の一部を口に入れ。
すでに注いであった牛乳で流し込む。
味気ないがこれだけでも腹は膨れるのだ。
(…………月曜からは学校サボって延々とあの女を探し続けるか)
どうせあのクソオヤジが勝手に稼いでくる金で学校へ行ってるんだ。
速人は、日常を取り戻すべく非日常へ足を踏み入れるために、迷いなく日常を切り落とした。
昨日、凶月凶はこう言った。
「要はね、ただの復讐なんだよ。遥くんは例の化物くんに友人を殺された。それだけ、以上終了、閉店ガラガラーってねー」
吸血鬼であるリネールのために日光を遮った待合室で、愉快気な声色で語る。
「つまんない話さ。それ以上のドラマなんかない、ただそれだけのお話。たまたま友人と一緒にあの化物に出会って、たまたま友人だけが上半身を食い千切られて殺されていた、だって」
「……」
「なにかなー、その視線」
何も言わず見つめるだけの速人の意図に気付いた、凶月がむっとなった。
「言っとくけど、本当にそれだけの話だからボクを無意味に疑わないでね。彼女の運が悪かっただけなんだからさー」
「……人が死んだって聞けば気分が悪くもなるだろ」
むしろ面白可笑しそうな凶月の方が異常だ。正体不明ではあるものの医者と名乗っておいて他人の死になんの感傷も抱いてないのが余計に癇に障る。
速人の義憤に気付かない凶月は「あ。でも」と言う。
「運が悪かったのは遥くんだけじゃなかったみたいだね」
「……俺も、って言いたいのか?」
「あるいはキミの身内かな? だって普通の人が化物に用があるなんて思わないでしょ? それとも何? キミはただの好奇心であんな鎌を出して殺意振り撒いてる遥くんに食ってかかったのかな? 違うよね? 食ってかからねばならない理由があったんだよね?」
今度はニヤニヤと実に楽しそうに糸目を歪めている。
実に性質(たち)が悪い男だった、凶月凶(まがづきまがお)という男は。
おそらくは見透かしているのにすっとぼけている。
あえて速人の口から言わせたいに違いないと、被害妄想ではない確信で速人は断言できた。
「…………妹が、最近いなくなった」
「へー。神社(かみやしろ)ぉー、何ちゃんなの?」
「永(えい)だ。神社永。聞いたことあるか?」
「聞いたことないね。リネちゃんは?」
「わたし……人間の方とは……知り合う機会が……ないです」
ふるふるとメイド姿のリネールが否定する。
「…………人間以外とはあるのかよ」
吸血鬼の言う事はさすがに一味違った。
だよねー、と凶月は苦笑する。
「なるほどね。要はその妹さんが知らず知らずの内に化物くんに襲われてる可能性があるってわけだ」
「ああ、十二月から消えて約二カ月。何の痕跡も残さず消えられるほうがおかしいだろ?」
「確かにね。なら化物くんにパクリと丸呑みされてるかもねー。それで化物くんが消えれば完全犯罪の成立だ。見つかりようがないよ」
「…………」
それしかないと今や断定気味に判断していた速人だったが、やはりそれは考えたくない可能性だったらしく、凶月に指摘されるなり閉口してしまう。現状では確率が最も高いのかもしれないのにだ。
「んんー? あれ、じゃあ遥くんのその喰われた友達っていうのがキミの妹だったりしないの?」
「はあ?」
凶月が唐突にそんなことを言い始めた。
速人は馬鹿かこいつと言わんばかりに疑念たっぷりの声を出す。
「ありえねーよ。永は友達がいなかったんだ。あの女と関係があるとは考えられない」
「おやおや。それはまた嫌な信用の貰い方だね。キミの妹カワイソー。兄妹に陰で『ぼっち』とか思われてたんだー」
「……そういう奴だったんだ。お前に文句を言われる筋合いはねえよ。俺だって馬鹿にしてるつもりはねえ」
こいつの妄言には付き合わないと速人は自制をする。怒っても徒労に終わるだろうし、このような不審さの塊のような人間に妹を理解されたくもない。
だから敢えて質問の部分だけを受けて答える。
「それにあんな奴が友達だったら、俺が嫌だ」
「それはボクも同感だ。一生関わりになりたくない短気なババアだからね」
あっはっはと同意するように凶月は声に出して笑う。
結局この後凶月から化物に関して有益な情報を手に入れられなかった速人は診療所を出て、女の行方を探してみたが見つからず、帰宅したのだった。
だから今日こそは見つけてやると速人は息を巻いていた。
職員室で教員に適当な言い訳をして怒られながらも、速人の頭の中にはそのことしかなく、返ってくる教員のお小言など右から左へ受け流し、適当な合間で謝罪の言葉を述べるという単純作業を繰り返し、ようやく今解放された。三限目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた所で、担任教員が切りがいいとのことで説教を終えてくれた。
(やれやれ。さて、どうすっかな?)
職員室を出るなり、速人はいつもの無愛想顔で疲れたと言わんばかりにため息をつく。その行為自体が担任の言葉を軽視している何よりの証拠だった。速人にはおそらく半分も担任の真意が届いていないだろう。
(今から全部の授業をサボろうかとは思ってたけど、やっぱさすがにそこまでやったら教員がキレるか? けど、こんな場所で時間を潰すわけにはいかねえしな)
廊下を歩きながら、速人は悩む。
向かっている先はとりあえず教室だが速人の頭には鎌の女が常にちらついており、決心さえつけばすぐにでも昇降口に走って町へと飛び出しかねない勢いだ。
(凶月が言うには日中は化物のほうが見つかりにくい場所に隠れてるだろうから、あの女も見つけにくい場所に居るんだよな。なら今探しても見つかりそうにないな)
となると夕方から夜が勝負かと作戦を組み立て、階段を昇っていく。
「あー! 見つけた!」
すると踊り場で甲高い声が降ってきた。
「っ!」
物々しいことを考えていたせいで速人の全身は必要以上にその大声に反応してしまった。
しかし、その緊張はすぐに緩和されることになる。
鋭く頭を上げて見やった先に、階段の終わりで一人の女生徒がいた。
髪を頭の側面で結んだ小柄な女子。
「あ……」
見覚えがある。というか、一度見たら忘れないような力強い印象を持った性格をしているクラスメイトだ。ぶっちゃけ速人は強烈な彼女の個性を避ける節があるくらいだ。 だから今も思い切り疲弊しきった表情になる。
相崎恵。それが彼女の名だ。
「…………」
そんな速人の思いも知らず、相崎はスタスタ―ッと階段を駆け降りてきて、
「おっはよー!」
と、元気よく視線の下から挨拶してきた。
「えっと、おはよ……」
「よっしゃ! コミュ成立!」
何故かそれだけのことで、目の前でガッツポーズをとられる。
速人は相崎のこういうところが苦手だ。
智雨を介して話す機会がしばしばあるのだが、いつでもどこでもハイテンション、人の話を聞いてるようで聞いていない、己のペースにあっという間に引きこんでしまうというのが相崎の特性だ。そういう誰にでも分け隔てなく接するというところがクラスの男子受けは非常に良いのだが、速人はその例外に含まれる。
「……なんか用か相崎さん」
なので、自然と相崎に接するときは声に張りが無くなる。対照的に、返事をもらえた相崎の顔は太陽の如く輝く。
「用ってほどのことはないのだよ、神社くん。ただ昨日理由不明で欠席したからどうしたのかなーって思ってさ!」
言われつつ肩を叩かれる。微妙に鬱陶しかった。
「あー……ちょっとした体調不良だ。別に気にしなくてもいいぞー……」
「おいおいそんな余所余所しい気を遣いなさんな神社くん! ワタシとキミとの仲じゃないか!」
心の底からの本音なのに、どうしてか都合の良い(速人にとっては悪い)方に解釈された。
こういう距離感を度外視した馴れ馴れしさが一番苦手だ。
(あーくそ……どうやって逃げ出せばいいんだ?)
確かに帽子の女を探すために学校での一時的な待機を決めてはいたが、だからといって進んで相崎と関わりたいわけではない。むしろ学校に居る間はこの喧しいクラスメートに構いたくない。
どうしたものかと困っていると、もう一人見知った顔の人間が階段を降りて来た。
「うーす、神社くん」
長いストレートの髪を、モデルのように格好良くさげた女子だ。
名前を三島夢という。
よくクラスの引っ張り役に挙げられる名で、クラスでも有名な相崎の抑え役だ。
「あ、夢のん。やっほー」
「あんたとは一緒に教室出ただろうが。あと、夢のんとは呼ぶな」
にこやかに呼びかける相崎に、しかめ面で謎のニックネームを否定する三島。いつもの二人のやり取りであった。
この二人だけが一緒に校舎内をうろついているのは珍しい。いつももう一人、速人のよく知った人物が加わってトリオで行動することが多いと速人は思っていたのだが。
「んで神社くん。元気―? って、見ればわかるか」
相方の一人がいないまま、三島は速人に近寄った。
三島は男子と比べても身長が高い方なのでほとんど速人を見上げることなく対話できる数少ない人物だ。しかし今は少しかがんで下から睨むように見上げてくる。
誰が見てもいきなり喧嘩を売られているようにしか見えないだろう。
実際、三島夢は速人を嫌っている。そういう節がある。
それは速人の勘違い、気の回し過ぎではなく、彼女は目に見えて速人とその他の人間に対するリアクションを使い分けている。ひどいときは生返事はおろか、聞こえていない振りをする。
「ああ。元気だ。そっちも元気だな。いつものように」
もっとも速人は速人で単純で、謂れもなく嫌悪されても怯まない。むしろ平然として、三島夢を逆に威圧し返してやろうという心持ちでいる。
三島夢は、速人にとってはいつも冷戦状態のクラスメートという間柄である。
「そっか。元気なわけね。無駄に」
「お互い様だろ」
冷笑を浮かべる三島に、速人はわざとらしく大仰に肩をすくめた。
「お、おいおーいお二人さん……なんだか恐いよー……」
相崎はそんな二人を見て引きつった笑いを浮かべた。自分たち二人の様子を見て慌てるのは、いつも周りの人間だ。例えばそれは相崎恵であったり、ここにはいない彼女らの友であったりもする。
「あーはいはい。わかったから、あんたはそんなにビビんな。ほんっとお調子者の割に修羅場に弱いんだから」
速人から視線を外し、三島は表情を苦笑に一転させた。やはり保護役が板についているのか、相崎を安心させるように頭を撫でてあげている。
「ほんっと仲良いんだな。んで、もう一人のやつはどうした?」
二人の仲睦まじさを眺めながら、速人は何気なく訊いてみた。
すると三島は撫でる手を止めずに、目を険しく細めたのだ。
「あー、そうだそうだ。そのことで神社くんに物申したいことがあったんだ」
その目に宿っているのは紛れもなく敵意だ。目が睨んでいるよう、ではなく明白に睨んでいると判別できる。
「……なんだよ? 俺がなんかしたか?」
速人は三島に嫌われている自覚はあるが、三島に責められることをしでかした覚えはない。
(知らず知らずの内に何かやってたとしてもまあ、三島に謝るつもりなんてないけど)
訳を教えず嫌ってくる人間に、速人はへりくだったりしない。怒るなら勝手に怒れと、頭に手を置かれてオロオロしている相崎を無視して、三島の次の言葉を待つ。
三島は憮然としながら口を開きかけ、
「速人!」
そこにまた別の声が割って入った。
声につられて見ると、階段の上からよく見知った人間が駆け降りてくる。
「ちさ、」
「速人! 一体どうして昨日学校に来なかったの!?」
その名前を呼ぼうとして、速人は口を開くもかき消される。ほとんど怒鳴り声のような悲鳴に、速人は思わず口を噤んだ。
駆け寄ってきた幼馴染の、声もそうだが表情も悲痛に崩れており、視線もどこか慌ただしい。速人の頭からつま先までくまなく見ては、おろおろとしている。
「え、はあ?」
唐突な智雨の泣き顔に、速人はただただ疑問符を浮かべる。
「怪我とかしてない!? 危ない所に行ってない!?」
しかし智雨は速人の混乱に気付かず、さらに一歩近寄って、しまいには腕を握って何を探しているのかわからないが、アレコレと検査し始めた。
「ちょ、待て! いったい何なんだ!」
訳などわかるはずもない速人は大声を出して振り払う。
「え、あ…………ご、ごめん。ちょっと、気が動転しちゃって……」
そこでようやく智雨は大人しくなるが、その言葉の意味が解らない。
「はあ? 俺が登校してくるってことは驚くことなのか?」
「そ、そうじゃないけど…………ごめん」
決まりが悪そうに智雨は視線を床に向ける。
慌てていたと思ったら落ち込んだ。一体なんなんだと、速人は乱れた制服を直しながらぼやくと、呆れ顔で物言いたげな三島が目に入った。
「……なんだよ?」
「べっつにー。今のでわかんないのは鈍感通り越して素直にイラつくなって思っただけだよ」
「はあ?」
本気でわけがわからないと首を捻る。
やれやれと三島は思い切りため息を吐いた。
「いやさ? だいたいわかるでしょ? 智雨は昨日ずっと神社くんに連絡をとろうとして、メールやら留守電やら残してたのよ。健気だと思わない?」
「……そうだそうだー」
三島の背中に隠れながら、小さく相崎も同意してくる。
(ああ、そういうことか)
三島が怒っていた理由がわかる。
常に三人セットと言われるほど、三島と相崎、そして智雨は結束が強い。高校に入って三人が出会ってからその絆は変わらない。
その三人の内、三島は非常に友達思いだ。智雨と相崎のためなら元来面倒くさがり屋であるはずの重い腰をゆうゆうと上げて、駆けずり回る程お節介と聞いたこともあるし、その姿を実際見たこともある。
なるほどと合点がいった速人は、すぐさま智雨に向き直った。
「悪い、昨日はちょっと野暮用があったんだ。返事は……普通に返すのを忘れてただけだ」
凶月の所から帰ってきた後に、携帯を見ている余裕もなかったし、そもそも智雨自体を思い出すこともなかったことは事実だ。そもそも異常集団に逢い過ぎてしまったせいで、今目の前にいる平和な世界の住人たちのことなど思い出している余裕などなかった。
だから八割方は真実の入った返答だったのだが、
「あ、う、うん……そうなんだ…………」
智雨の表情は、目に見えて固くなった。
この時、おおよそ速人がしたことは間違っていない。
しかし謝罪というのは、相手が謝ってほしいというところを謝らねば意味が無い。
ましてや速人はこの時、『三島が怒っているので、さっさと謝って面倒事を終わらせよう』と、謝る相手である智雨に心を向かせていなかった。
何故なら速人の頭の中は、この時点でも常に永のことが大半を占めていて、その手掛かりとなりうるかもしれない帽子の女の事ばかり考察していた。
故に、速人の心には智雨を気遣う余力などなかったのだから、謝罪が破綻していたとしても無理はない。
「わ、私が勝手に心配してただけなんだから別にいいよ……」
そして、まるで自身を取り繕うような智雨の言葉も、
「そっか」
なんの感慨も湧かせず額面通りに受け止めたのも、ある意味では当り前なのかもしれない。
「これでいいんだろ?」
けれど智雨本人を目の前に、三島にどうだと言わんばかりに確認をとってしまったことは果たして仕方がないことであったのか。これではまるで智雨と心がすれ違っている事をアピールしているようにしか見えない。
「…………へー」
案の定速人の心情など知る由もない、智雨を友と慕っている三島は表情を引きつらせた。
無神経と罵られてもおかしくない言動を、自分の友に向けられたのだから心中穏やかでいられるはずがない。
「んじゃ、先に教室行くから」
しかし当の本人はまったく三島から漂う敵意に気付かず、もういいだろと勝手に終わらせて階段を上がっていく。
もしこれが家族を一人失う前の速人であったならば、智雨の狼狽ぶりを見て、何かを察せたかもしれない。
だけれど今の速人はその期待は望むべくもない。
(さて。放課後どうやって、どこであの女を探すかな?)
すでに非日常に足を踏み入れることを考えているような人間に、日常にいる人間のことを察しろというほうが無理な要求であった。
と、背後で心理的に外傷を負った智雨を置いて階段を速人は昇りきったところで、下級生の集団と思われる女子グループが正面から来たので、脇にどいた。
(そういえば永のやつも本当はこうやって学校に通ってたんだよな。ま、楽しかったどうかはわからないけどな。あいつ友達の話もしないし、そもそもいたとも思えんしな……)
懐かしい記憶を呼び起こしながら女子集団をやり過ごそうとした、
そのときだった。
階段を降りようとしていた女子集団の最後尾。
現在、速人が最も忘れてはならない女の顔がそこにあった。
たしか名前は、大応遥。
凶器を手に、狂気と殺意を振り撒いていた女が、まるで別人のように温かな笑みを浮かべながら談笑していたのだ。
「――!」
その瞬間、速人の頭の中が沸騰したように真っ白になった。
帽子こそ被っていないが、それは間違いなく速人が再会を焦がれている意中の人物に他ならない。
一気に湧き立った感情を、脳が処理できない。
しかし速人の体は、一種の本能を呼び起こされたように反射的に一つの行動をとっていた。
気が付いた時には、どうしてかここの女生徒であるらしい帽子の女の肩を後ろから力強く掴んでいた。
「いたっ」
階段を降りていく数人の女子に続こうと足を踏み出した遥は、突然体がつんのめさせられたので、勢いよく振り向いてきた。
「なんで…………ここにいるんだよ?」
本気の憤怒の顔が向けられるが、速人は少しも動揺せず問う。
「なっ――――」
肩を掴んだのが速人だとわかった途端、遥の顔が驚愕の色に染まる。どうやらここで出会ったとのは完全な偶然でありアクシデントであったらしいのが見てとれた。
しかし、それも一瞬のことで。
「遥? どうかした?」
一人階段を降りてきていないことを訝しんだ友達らしい女子の声が聞こえた瞬間、遥の顔が一瞬で速人が話し掛ける前の、まるで普通の女子高校生らしいものに変わってしまった。
「えっと、なんか絡まれてる、のかな?」
困ったように遥が笑顔を浮かべて、仲間の女子グループの動きが慌ただしいものに変わった。
「え? ちょ、やばくない? 肩掴まれてんじゃん」「うわ、まじだ。学校でナンパ?」「遥、なんかやったのー?」
「なんもやってないって。肩が当たっただけ。つうかもっと真剣にあたしの心配しろってー」
からかい混じりに遥が半分笑いながら嘘をつき、少し焦っていたらしい女子たちは相好を崩してクスクスと笑い合う。
(――っ、)
しかしその態度が速人を苛立たせた。
母親が死に、父親はもういないものとしている速人にとって永は最後に残った家族だ。
その永を心配し奔走している自分を、遥は笑った。そのことがまるでいなくなった永を嘲笑われている気がして。
「なにがおかしいんだよテメーはよ!?」
頭にきたと感じたときには、すでに思い切り遥の胸ぐらを掴んで引き寄せていた。階下から女生徒たちの悲鳴が聞こえるが、速人は全く気に留めない。
このままぶん殴ってやろうかと半ば本気で実行しそうになる。
「やめろ、ノッポ」
しかしそれは、小さな声に押し止められた。
「っ!?」
人間らしい温度を感じない声色に、主導権を握っているはずの速人のほうが恐怖に体を震わせた。
それだけではない。
遥の目が、鉄くれのような冷たいものに変貌した。
顔を無理矢理上に向かされているのに、恐ろしい迫力をたたえていた。
なおも遥は小声で続ける。
「もしぶん殴ろうとしたら、あたしは事故を装ってあんたを殺すわよ。今じゃないわよ、あんたが夜道で一人になったときとかね。あたし、あんたのことが大嫌いなの。なんか自分一人が不幸になってますって顔してるからさ」
「…………!」
反論を許さない、本気の脅迫に速人は何も答えることができず震えるしかない。
「あーあ、今になってビビったんだ。つまんないわね」
思い出した。この女はなにも躊躇わない。
速人が、仮に永を殺害した犯人に対して復讐を躊躇せずに実行するのと同じくらいに、遥は人を傷つけることを躊躇わない。
知性があるだけの狂犬。理性などほとんど残っていない。癇に障った程度で人を殴りつけて大怪我を負わせ、その後化物が徘徊する夜の町に放置して一人で帰ってしまうような女。
復讐を果たせるのなら、他人の生き死になどゴミのリサイクルのように利用しようとする異常者。
それが速人の知る、大応遥だ。
その異常殺意の保持者、遥はしかし。
「は、遥! わたし先生呼んでくるね!」
「あ、うん! お願いなずな!」
下から仲間の声がかかると、すぐに凡庸な女子高校生に変身した。寸分も殺意の色も残さない、完璧な変わり身だった。
その姿がまるで、同じ人間とは思えなくて速人は遥から手を放す。
「…………ほんとうに不気味な奴だ……!」
遥は下から同級生の顔が見えないのをいいことに、また顔を変貌させる。
笑ってはいるものの、とても友好的ではない顔に。
「黙って教員に叱られときな。ああ、あと誰かにあたしのことを話したら殺すからね」
小声で囁く遥は、まるで悪魔のように見えた。
「智雨ぇー、あんた相手変えた方がいいんじゃない? なんか本格的に精神壊れてるみたいだし。気遣いとデリカシーに欠けてて、さらにイカレてるときちゃポイしたほうがいいよ?」
階段の踊り場で速人と一部始終を見ていた三島夢は、言葉に憐憫を込めてそう告げた。
誰に対する憐れみなど言うまでもない。友である智雨に対してだ。
「…………」
同じく智雨は暗い顔で俯きながら何も言わない。言い返せる材料がないのか、それともないのは気力なのか。とにかく智雨は黙ったままだった。
「夢のん!」
代わりに相崎恵が咎めた。小柄な体で長身の三島を叱りつける、その様は少々滑稽な絵面ではあるが三島は茶化さない。何故なら自分は本気で智雨に提案したのであって、決して冗談で言ったつもりではないからだ。
「そうは言うけど恵。あんただって見てたでしょ」
我が子の駄々を窘めるような言い方に、相崎は「うっ」と言葉に詰まった。
怯んだところで、三島は追い打ちをかける。
「昨日は散々心配してくれてた智雨に対して真心のまの字もない謝罪したら、いきなり階段を降りてきた下級生の女の子に肩が当たった程度で因縁つけて胸ぐら掴むようなイカレ男。良い所なんざ、どこにも見当たらないじゃん」
イカレ男こと神社速人は下級生が連れてきた教員によって連行されていった。今頃は説教の嵐の真っただ中にいることだろう。
(気になるのは、教師に引っ張られる前から急に大人しくなったことだけど……)
などと考察していると、相崎が詰め寄ってきた。ぷくっと頬を膨らましているのがわざとらしすぎて逆に威圧されてしまう。
「な、なによ?」
「夢のんだって恋人いないくせに大口叩くなよ!」
「んがっ……そ、それはその…………そう! 一般論! アタシは一般論の話をしてんの!」
「じゃあ単なる耳年増じゃん! 経験なくして恋愛を語るなんて冷静クイーンこと夢のんらしくないねえ!」
「知ったかで智雨にアレコレ吹き込んでたやつがほざくかそれを! つうか知らない間に変なあだ名増やすな!」
よくわからないことで言い争う。三島は智雨の怒りの代弁者はここにも居たことを忘れていた。相崎は基本的に誰にも甘いのだが、自分にだけはビシバシ文句を吐く。その程度で友情にヒビを入れるつもりはないという心意気をわかってくれているのだろうとは思うのだが、鬱陶しいときは本格的に鬱陶しい。
「えっと……二人とも、ごめんね」
突然の謝罪に相崎も、三島も驚いて智雨を見る。
「なんか迷惑かけちゃったみたいで……」
そう智雨は弱々しく笑った。自分のために怒ってくれた三島に感謝すると同時に、申し訳なさそうに。
しまったと三島は己の愚行を恥じた。
枝元智雨はトラブルに巻き込まれた場合、あるいは自分の周りの人間が否定された場合に自分に非を転嫁させて場を収める。あるいは自分を貶めて周りの他人を守ってしまう癖がある。
その自己犠牲精神が智雨の美徳ともいえるのだが、それではストレスを一番溜めこんでしまうのは智雨自身なのだ。
誰かを守るためなら自分を傷つけよう。それが枝元智雨の思いだ。
この場合守られたのは神社速人で、それを攻撃したのは他ならぬ三島で、智雨を傷つけたのも三島自身だ。
どうやってフォローを入れるか、冷静クイーンこと三島はクラスで切れ者と評される頭脳を目まぐるしく回転させる。しかしその甲斐なく横やりが入った。
「いやいや! ちさめちんは悪くない! 悪いのはワタシだ! だから……ワタシを叱ってくれえい! さあさあさあさあ夢のん!」
「って暑苦しいこと口走りながらくっつくな!」
なぜか喜色満面で抱きついてくる相崎を、嫌そうな顔全開で三島は引きはがしにかかる。
「ハッ! ………………ていうかむしろ……お詫びに脱ごうか!? ちさめちんへのお詫びの意味を込めて脱ごうか!?」
「え、えええええええ!」
「やっほーう! 同級生の全裸を想像して真っ赤になるちさめちん可愛いぃー!」
「うっさいわ!」
「そしてブチギれた夢のんのゲンコツ超いてえぇー…………ゴフッ!」
わざとらしく相崎はバタリと廊下に倒れ込む。この異常テンションに付き合うのは大いに疲れると肩で三島は息をする。
すると、智雨はくすりと笑う。
「もう恵ったら。そんなところに寝転がってると制服汚れるよ?」
「よいやさー! ちさめちんに窘められては仕方があるまいに。んじゃっ、教室戻りますか」
調子の良いことを言いつつ、相崎はくすりと笑う智雨の背を押していく。智雨は少し明るさを取り戻しつつ微笑んでいた。
その様子に一安心した三島も続き、小さな友人に小声で耳打ちする。
「あんがと」
「なにが?」
ニッと生意気に笑い返されたので、こちらも笑い返す。
いつも通りの光景だ。
智雨が困ったら、相崎がふざけて、自分が相崎に乗っかって、場を和ます。
とりあえずは一安心と三島は肩の力を抜いた。
けれど、ふとあることを思い出して眉間に皺を寄せる。無論、前を歩く二人には気付かれないように。
(そういえばなんの偶然だ? あの女、大応遥と神社くんって組み合わせって……)
絡まれていた下級生に対して、絡んでいた速人に『元々向けていた嫌悪感』を露わにしつつ、三島は二人の後を追った。
大応遥と神社速人。
三島にとっては悪い冗談みたいなコンビだ。
今度は四限目と昼休み、そして五限目の授業の時間を全て使用し、生活指導の教員に速人は怒鳴られ続けた上、反省文を原稿用紙三枚分を提出させられた。あの休憩時間での一件は、速人が肩をぶつけられたので大応遥に憤慨したという顛末に落ち着いた。どうしてかというと遥の取り巻きの一人、なずなという女子が教員にそのように話したからだ。おかげで速人は部活動を辞めた昨日を境にグレてしまったという心外な評価を教員たちに下された。部活を辞めた件が無くとも、いきなり大した訳もなく下級生女子の安全を脅かした罪は重かったのだろう。速人は生活指導室に閉じ込められ続け、交代制の監視教員がいる目の前で強制的に自省させる文章を丁寧に書かされた。
だけれど弁解できる材料が何一つなかったというのも事実で、実際どうして大応遥という下級生に食ってかかったのかと問われると閉口せざるを得ない。
理由の一つとして大応遥に脅されているからだ。
ああも脅されて堂々と無視すれば、おそらく本当に大応遥は速人の命を狙いに来るだろう。暴力は加えても殺害はしない、というおおよそ倫理と呼べない倫理に遥が則ってくれるとは限らない。もしそのように敵対してしまえば速人には抵抗手段が無く、遥の宣言通りに命を落としかねない。速人は魔術がどうなどとは無縁の人間で、大鎌を一瞬で取り出して化物と渡り合う女に勝てる見込みなど万に一つもない。
理由のその二としては、そもそも敵対自体が速人にとって不都合だ。
永の手掛かりとして機能するかどうか怪しい化物。けれど一概に無視は出来ない存在で、それを追いかけているのが大応遥だ。彼女の協力なくして化物を追跡する手立てはなく、アレと相対したときの戦闘手段としても遥は重要な存在だ。一昨日の夜も遥がいなければ、おそらくはあっという間に殺されていたに違いないと、無力ながら速人は確信している。
以上の二点から、速人は教員が並べ立てたでっち上げの事実を受け入れ、説教に耳を傾けることしかできず、
「………………………………はあ…………」
今も尚、クラスメートから向けられる怪訝な視線に耐えるしかなかった。
時間はすでに六限も終わって帰りのホームルームなのだが、クラスの人間のほとんどが担任の連絡事項を聞きつつ速人に目を向けていた。
おそらく神社速人の不良化説でも耳に届いたのだろう。校内で暴漢となるクラスメートが現れれば、誰でも奇異の目で見るのは当り前だが。
元来冷静に事を進めることが苦手な性質(たち)だということは自覚していたが、今日ばかりはその性格が恨めしくなる。
別に今更クラスメートに揶揄されるのは、速人としてはどうでもいい。
人嫌いではないが大事な家族がいなくなった今、目の前にいる同級生が何をしようとどうなろうと知ったことではない。
(ただ正直、鬱陶しいんだよ………………)
いちいち合う度に逸らされる視線の弾幕が煩わしくてしょうがない。就寝の際に耳元を掠める羽虫の音のように気に食わない。
(こっちは家族の問題で頭が一杯だってのに、お前等はたかだか噂程度でよくそこまで熱中できるよな…………しかも大半はロクに話したこともない連中だろうが……)
本格的にイライラしてきたので目が据わってしまう。
いっそ本当に噂通りのことをして度肝でも抜いてやろうかと実力行使も辞さない程に心乱れてきた速人であったが、
「きりーつ」
いつの間にか担任が話を終えて、クラス委員が帰りの号令をかけるところだった。
クラス全員が立ち上がる中、速人も気だるげに立ち上がりその他大勢と共に担任に頭を下げて別れの挨拶をする。
(よし)
同時に速人は一目散にクラスを抜けだした。
「ちょ、ちょっと速人! 掃除は!?」
「任せた!」
隣の席で、同じ掃除当番である智雨の焦った声が鼓膜を揺らす。
これでまた世話役の三島に目をつけられるだろうが、彼女の反感を買ってでも速人は優先することがある。
まだ誰も教室から出てきていない、無人の廊下を速人は駆ける。向かっている先はいつもの二年の昇降口ではない。少なくともそこへ行くには廊下を進む手順が違うし、下駄箱は逃げていくわけではないのだからきちんと掃除を終えてから向かえばよい。
ではわざわざ再び教師や三島に睨まれる危険を冒してまで急行しなければならない場所とはどこなのだろうかと尋ねられれば、愚問である。
去年の三月まで使用していた、一年生の昇降口だ。
(あの女はまだ来てないみたいだな……)
周囲を確認して、速人は昇降口全体を見渡せる壁にもたれかかって休む。ひとまずは間に合ったようだ。
すでに使用権が無い二年生である速人が、こんなところへ来る理由は一つしかない。
実は同じ学校に通っていた大応遥を待ち伏せるためである。
もちろん、この行為がすでに何度買ったかわからない遥の怒りを再燃させることだと速人はしっかりと把握している。
(だけど恐がって引き下がったからって何も始まらねえし、それにあいつの事を他言したわけでもねえから大丈夫なはずだ……)
遥の条件を反芻し、安全を確認する。
そしてふとさっきまでの自分の状態を思い出した。
(つーか、これじゃ本当に噂通りの不良じゃねえか……。どう見ても今の俺って『後輩に絡んだものの先公にチクられたのを逆恨みしたヤンキー』だよな……)
元々勢いで突っ走る傾向だらけの速人だったが、今更ながらに己の姿を省みた。
(あーあ、永が帰ってきたらドヤされるよなあ…………『わたしのいない間に兄さんが変わってしまった』とか、ふざけた調子でチクチクと飯を準備しながらとか、寝る前に『お休み。不良の兄さん』とか、朝起きて顔合わせたら『不良なのにちゃんと早起きして良い子だね』とか)
ちょっとだけ鬱になる。永に失望された未来が次々と浮かび上がってくるのでやるせないこと、この上ない。
(……ま、俺が失望されるだけならいっか)
そんな平和なオチで済めば、速人としては万々歳だ。
これ以上ないハッピーエンドで、最高の結末だ。ドラマなんぞ必要ない。ただそこにいつもある景色があればよい。
「あーあ」
そう、こんな。
「やっぱり待ち伏せてやがったかー」
いつの間にか隣に忍び寄り、あまつさえ剣呑な笑顔で人を縮みあがらせようとする女なんか速人は要らない。
「……よお」
ある意味では想い人の大応遥がそこにいた。顔が触れ合うかという距離に近付かれているせいで、長身である速人のほうが遥に呑まれていた。この女には体格差など通用しないから恐ろしいのだ。
「よっ。あんたも熱心ねえ」
こちらの挨拶に軽い調子で笑って応えてくれる遥。その心中は必ずしも表情とは一致してないだろう。
「いやー確かにさ、あたしは追ってくるなとかは言ってないわね。説明はしたくない、あの化物はあたしの獲物、他言無用とは告げた。だからこうしてあんたがあたしを追いかけ回してるのはあたしの出した条件に違えてないわね」
野生の獲物を見定めた蛇のような目で、遥は速人を射抜く。その雰囲気と彼女が着用している海西学園の制服がミスマッチしていて、すごく浮いているように見える。
「でもさ、あたしの機嫌を損ねるだけで殺されるとか考えてなかったわけ?」
ニッコリと天使のように微笑む遥は、
「例えばここ、誰もいないのよ?」
顔とはまるで裏腹な、憎悪を込めた台詞でそう言った。
「っ、」
静まり返った廊下に遥の声が響いたとき、速人は今更ながら心臓の鼓動を高鳴らせた。
遥の言う通り、今昇降口は人目がない。やがては他の生徒がやってくるだろうが、今この瞬間に何が起きても誰にも知られることが無い。
例えば速人の首が突如大きな鎌に飛ばされても誰も証言してくれない。
遥の凶器は自由自在に出し入れできる。それは遥が第一発見者になっても、そこから犯人と証明される手段がないということだ。遥の犯行を証明するには、その大鎌を大勢多数で目撃しなければならない。
遥がもし警察に捕まるから殺さないという極めて自己本位な動機で、殺害を踏み止まっているとしたら、今が最も危険なタイミングだ。
つまりこの瞬間こそが、遥は速人を消す絶好の機会ということで――、
「まあ、何もしないけどさ」
遥がため息と共にもらしたその言葉に、速人は思い切りコケそうになった。
「脅かすな! 本気でビビっただろうが!」
笑いかける膝を押さえながら、速人は怒鳴るも遥は知るかと呆れる。
「あたしだって目的を果たさない内にまだ刑務所に入りたくないわよ。だいたいあんたはあたしの能力が万能みたいに勘違いしてるけど、そう大層な力じゃないわよ。あんたが拳銃持ってあたしを攻撃すれば簡単に殺せる可能性だってあるの。警官に囲まれでもしたら、あっさり射殺されるってことよ」
「持ってねえよ、んな物騒なもん……」
少なくとも平和な国の学生が講じられる対抗策ではない。
「防御力に関してはあんたと何ら変わりないノーマルな人間だって言ってんの。なんなら包丁で心臓刺してみる? 普通に死ぬけど」
遥はあの化物との殺し合いの思考に染まりきっているせいか、
「殺さねえよ。俺はお前に用があるんだ」
「あたしに告るの?」
「告らねえよ! なんでいきなりお前なんかと恋愛沙汰に発展するんだ!」
「あたしもあんたみたいな猪突猛進の思い込み馬鹿だけは恋愛したくないわね」
ハッ、と遥は小馬鹿にした風に笑う。
多少なりとも男のプライドを傷つけられ、速人はカチンとくるも、本題とは無関係なので流す。
「いいか? お前に用ってのはなあ――、」
「あ」
そのとき遥とは違う、何者かの声が背後からした。
声に釣られて振り向くと、どうやら一年生らしい女子二人組が立っていた。
たまたまこの場に居合わせただけかと速人は判断したが、しかしその二人組の一方の様子がおかしい。こちらを注視している、というよりは驚いて目を見開いている。
「なんだ、お前の知り合いか?」
小声で遥に尋ねる。
速人に下級生の顔見知りなど、永や遥を除けば他にいないのでその結論に達するのは至極当然だった。
しかし遥もまた小声で否定する。
「違うわよ。あんたが誑かした女じゃないの?」
「お前の目に映る俺はとことん危ない野郎だな……」
若干今までの行動を反省したくなる。
「あんた、この間の…………。同じ学校だったの?」
二人で内緒話を続けていると、様子がおかしかった女子生徒が話をかけてきた。
その視線の延長戦上には遥がいる。
「おい、やっぱりお前の知り合いじゃないか」
「だから知らないわよ。誰よアンタ」
呆れ半分に言い返してやるが、遥は頑なに否定する。
すると、今度はもう一方の女子が怪訝な顔をし始めた。
「知り合いなんですか、絢?」
「前に脅迫された関係よ」
「……お前、そんなことしてやがったのか。本当にライオンのほうがまだ安全じゃねえか」
「あんた、ぶっ殺されたいの?」
思い切り睨みつけられた。
あまりに同調できる台詞が飛び出したので、つい本音がこぼれ出てしまった。
わざとらしく速人は顔を背けると、遥はその二人の女子に視線を戻した。正確には絢と呼ばれた女子にだ。
「脅迫ねー……、もしかしていつか廃ビルで会ったやつ? あんたもあの化物を追ってるの?」
「え?」
あっさり言う遥とは逆に、速人はギクリと肩を動かした。
その質問はつまり絢とかいうこの女子も遥と同類項という可能性を示唆している。
「は? 化物ってなによ?」
遥の予測は違ったようだ。絢はまるでわけがわからないという顔になる。
安心する速人とは裏腹に、遥は何故か苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
「違うならいいわ。ばいばーい」
しっしと追い払うように遥は手を振る。
「ちょっと待ちなさいよ! あんた、何を追ってんのよ。もしかしてかなりヤバイ事件にでも関わってんじゃないの?」
しかしそうは問屋が卸さなかったようで、絢は猛然と遥に食ってかかった。
(なるほどね…………邪魔者が増えそうだったから変な顔したのか)
遥の質問は完全なやぶ蛇だったようで、絢はじっと遥を睨みつける。少なくとも絢はすぐに立ち去ってくれる雰囲気じゃなくなった。
遥も遥で速人にひっつかれた後で相当ストレスが溜まっていたのか、目が据わり始めた。
このままでは最悪遥がキレかけない。
出会ってから遥に自制心という単語を連想させられたことのない速人の危惧は、相当なものだった。
(絢って奴は化物って聞いても驚かなかったし呆気にとられなかったってことはきっと関係者ってことだろ……)
ならば遥が先に手を出したら何らかのおかしな力で応戦することも考えられる。
(あーくそ! じゃあ俺かもう一人の女が仲裁に入らないとまずいだろこれ!)
チラリと視線をもう一人の名前も知らない女子に移す。彼女は彼女で遥の言葉を聞き入っているようで、絢を止める気配がない。
(じゃあ俺かよ! くそ!)
やけくそになって速人は適当に言葉を紡いだ。
「こいつが追ってるのはな、巨大な黒い馬の化物だ!」
それは奇しくも遥がもっと喋られたくない言葉だったろう。
病的なまでに部外者の介入を拒絶する遥なら。
(………………………………………………しまった!)
全員が黙り込む中、速人は猛烈に焦った。
呆気にとられる女子二人組を見ながら、ダラダラと汗をかいた。
先程、本気の命の危機に晒されたことを思い出したのだ。
しかし時すでに遅し。
速人は自分に迫る危機を予感しながら、ゆっくりと遥を見た。
遥はもう二人を見ていない。
焦る速人の顔を、親の仇のように睨んでいた。これまでなら帽子が多少なりとも軽減してくれた、矢のような視線が直接に速人を射抜く。
「あんた……何言ってくれてんのよ?」
空気が凍る。
昨日今日で一番の、怒りに震える声が速人の鼓膜を震わせる。
女子二人組も、遥の異変に気づいたようで何も言わなかったが二人の様子を確認する余裕が無い。
「ま、待て! 待ってくれ!」
速人は今から怒れる暴君に、言い訳をしなければならない。
「こいつらも訳ありみたいだろ! だから、もしそういう見るからに化物を知っていたら教えてくれるんじゃないかと思ってさ! もちろんアレだ、俺があの化物を知るためにな!」
口から出た出まかせであったが、命を守るために速人は必死に考えてもいなかったことを計算ずくみたいに言う。
遥は黙って耳を傾けていた。もちろん睨んだままでだが。
「だってお前は俺に何も教える気はなかっただろ? なら俺が化物のことを誰に訊いてもいいじゃねえか! それにだ、お前のことは何も言ってないだろ? お前の言ったことには反してない! どうせ俺は後でこいつらに化物のことを訊きに行こうと思ってたんだから結局同じ事さ!」
速人も自分で何を言っているのか、そもそも筋が通っていたり論理が成り立っているのかわからなかったが、早口の勢いでごまかす。
説明が終わると、やがて遥は思いため息をつき、
「あー、ぶっ殺したい」
とても物騒なことをのたまって、遥は一歩下がった。
「いいわよ、訊きなさいよ。たしかにコソコソと後で嗅ぎ回られてそいつらと一緒にあたしの邪魔されても困る。だからあたしの前で堂々と聞き込みしてくれれば安心だわね」
やさぐれた顔で、こちらの意を勝手に汲み取ってくれたようだ。
「どうせ知らないと思うけどね」
最後にケッと悪党のような悪態をつき、遥は黙る。
つくづく女子らしくねえなと片隅で思いつつ、速人は本気の安堵の息を吐く。
「あのー……馬の化物って、首切れ馬とかそういうのですか?」
黙っていたもう一方、比較的大人しそうな女子が近寄ってきた。
速人は遥の視線を背中に感じながら、首を振った。
「…………いや、そういうのじゃないんだけど。一目見たら化物ってわかるかな。体は普通の馬よりでかいし、しかも人にいきなり襲い掛かってるし」
「妖怪の類じゃなくって、そのままの意味の化物ってことね」
「あ、そういうことですか」
思いの外、理解が早かったので驚く。
(やはりこの二人、普通の人間じゃねえのか……)
あまり嬉しくない方での予測通りの展開に、速人は警戒心を強める。
「というか、なに? その化物。聴く限りじゃ危険極まりないじゃない。なんでそんなもの追ってんのよ?」
「えっと……」
もっともな絢の疑問に、速人は言い淀みつつ遥を見やる。
「…………」
当然ながら良い気分ではなかったようで、無言のまま速人を見る眼の力が強まった。遥の事情を喋れば本気で速人を敵として扱いかねない危険な様子だ。かといってこのまま黙秘していては印象が悪い。
「あ、絢」
どうすべきかと悩んでいると、不意にもう一人の女子が声を上げた。
「なに? 初」
初と呼ばれた女子が絢に耳打ちをする。
今更だがこの二人、おそらく全然速人に興味を持っていない。
(鎌女の仲間だと勘違いされるのも勘弁だが、あまりに興味を持たれないと軽く腹が立ってくるな……どいつも俺なんか眼中にないってか)
小さなプライドを傷つけられる。その間も問答無用で、二人の密談が続く。
もしや速人にとって有益な情報を交わしているのではないかと、耳を澄まそうとしたとき。
「――イッテ!」
背中の痛覚が働くと同時に、速人は前のめりになる。
振り返ると、遥が片足を突きだしていた。器用にスカートの中が周囲に公開されないように、考慮されつつに。
「…………なんでいきなり俺が蹴られるんだよ?」
どうせ怒鳴っても主導権が得られないことは身に染みていたので、速人は静かに尋ねた。
遥は憮然とした顔のまま、一言。
「行くわよ」
と、口にした。
「……………………え?」
速人は一瞬、遥が何を言ったかわからずポカンと間抜けな顔を晒す。
「一緒に帰るっつってんの。行くわよ先輩。今すぐ上履き履き替えて来い」
幻聴では無かったようだが、未だに信じられないことを遥は繰り返す。
「え、まだ話の途中じゃ? ていうか俺も一緒に行っていいのか?」
「いいから言ってんのよ。はいダッシュ。校門前で待ち合わせね」
言いつつ遥はすたこらと下駄箱に歩いていくので、速人は急いで二年の昇降口に走った。
走り出した後で、そういえば絢と初とかいう女子二人を放置してしまったことに気がついた。
(まあいいか。どうせ、あの二人は化物ことを知らなかったんだし)
それよりもと速人は昇降口に辿り着き、素早く靴を履き替えて、校門前に急ぐ。
(あの鎌女の気が変わったんだ。今ならあの女から化物のことを教えてくれるかもしれない!)
「あんた、余計なことしてくれたわね。本当に。なにライバル増やしてくれてんのよ?」
そう甘くもなかったらしい。
校門前に辿り着くと開口一番罵倒された。
だが陰の残る機嫌の悪さではなく、まるでイタズラっ子を叱るような口調だった。
「これであの化物が先に殺されたらどうしてくれんのよ?」
「えっと、すまん」
「謝って済む問題かっつうの」
グチグチと零しつつ、遥は校門を出て行く。
速人も離されないように追いかけた。
「なあ」
「なによ?」
比較的遥の印象が穏やかなためか、速人は気軽に声をかけることができる。
どういう理由かはわからない。遥ならば例えこの通学路の道すがらにでも問答無用で襲って来そうなものだが。
「今更だけどお前も海西学園の人間だったんだな……偶然見つけた時はほんと、まじで焦ったぜ」
「はあ? 知ってたからあたしを学校で探してたんじゃないの?」
驚いた事を述べたら逆に、遥に驚かれた。
「い、いや? 知らなかったぞ。お前の名前しか凶月には知らなかったみたいだし」
「……なるほどね。あいつのいやがらせか。ソレに関しちゃ天才的ね、あの赤白黒男。押し付けられたと思ったら押し返されたってわけかー……あのエセ爽やか」
「エセ爽やかって……また凶月だってことが解りやすい表現だな。で、なんのことだ?」
「凶月はやっぱり根性最悪のクソヤローってこと」
「いや知ってるからな」
その上速人は変態でロリコンで狂人だと続けようとして、どうしてそんな男とお近づきになってしまったのかと自分の運命を呪いたくなった。
「その最悪ヤローはね、あたしが海西学園だってこと知ってたの。あいつと会った時、あたし制服着てたから間違いないし確認もされた」
「まじかよ……」
速人は唖然とする。それが事実なら十分に速人への背信行為だ。
(あれだけ面白そうだからこの女の情報をくれてやるって言ってたのに――)
そこでふと気付く。
「……俺は海西(かいせい)学園(がくえん)の高校生だって凶月に言った覚えはない。けれど、凶月ってもしかしたらさ」
「ああ、気付いたの。ええそうよ。どうせ『そうだったら面白いなー』程度の感覚でやったんでしょ。もし偶然学校であんたとあたしが会ったら……まあ、さっきの休み時間みたいなことになるわね」
やはり速人の勘は当たっていたらしい。
速人への情報提供も道楽ならば、速人への裏切りもまた道楽が原因だ。
凶月凶(まがづきまがお)、あの人間は信頼という言葉を知らないらしい。
「うぜえヤローだな……なにが楽しいんだ?」
必死に遥を見つけてやると意気込んでた速人は凶月への嫌悪を丸出しにする。
遥はその怒りに同調するように肩をすくめた。
「あいつの感覚を理屈で捉えようとしても無駄でしょ。リネちゃん曰く『凶月凶は自分が楽しいと思うことなら寝る間も惜しむ』そうだから」
「……」
歩く傍迷惑だなとか思う。
「ちなみにあんたは性格傲慢ノッポ」
ニッと遥に笑いかけられる。
「なにかうまいことを言ったつもりか……? わけわかんねえよ」
いきなり相好を崩れても反応に困る。遥の笑みは今のところ速人にとっての鬼門でしかない。
訝しむ速人を、遥は意外そうな目で見つめた。
「あれ……ノリが違うんだ」
「誰とだよ?」
「ん……いや、何でもない」
「?」
何かの確認作業だったのか、遥は首を捻っている。とはいっても何も確認されるようなことはないはずだが。
速人にとっては意味が解らない行為だったので、気にせず質問を再開する。
「さっきの、あの二人とは知り合いなのか? 脅迫がどうとか言ってたけど」
「……ちょっとうろ覚えね。あのときはあたしも錯乱してたし」
遥はうんうん言うのを止めて答えてくれた。
しかし気になる単語があった。
「錯乱? お前が?」
「その事については話す気はないわよ」
「じゃあ、化物ことなら話す気があるんだな」
「…………訊きたいことがあったら凶月にって言ったでしょ」
殊更に遥はうんざりした素振りをする。
「化物については知らないっつってたぞ。この嘘つきが」
「そりゃあいつは直接見たことないだろうからロクに情報持ってないはずだもん」
「……おい。思いっきり確信犯か」
道理で適当な解説しかしなかったわけだ。
「つうか、あんたさ。もしかして行方不明の妹とかなにやら追いかけて、あの化物に行き着いたわけ?」
「行き着いたんじゃなくて出くわした、の間違いだけどな」
「なんでもいいけど、もしかしてアレに訊くわけ? 『俺の妹食ったのはお前かー!?』って」
遥はハンと鼻を鳴らした。バカバカしいと言外に切って捨てた。
「あんたさ、人探しの意味わかってんの? まさかあんたの妹がアレに変身したとか言い出さないわよね」
「もしかしたら妹がアレに襲われてるかもしれないだろ。他に思い当たる節がないからな」
「だったらどうするのよ?」
「あの化物を殺す」
一層冷えた声が出た。まるで感情が籠もっていない。
それだけ永の命が奪われるということは許せない。
「……ふーん。あたしの邪魔をするってこと?」
横を歩き続ける遥は、どうでもよさげだった。ただの一般人では化物の横取りなどできないという確信かもしれない。
「……俺の妹が仮にアレに襲われてたらの話だけどな」
その反応を悔しく思いつつも、認めざるを得ないことだ。いくらなんでも速人だけではあの化物を殺すことはできない。どころか見つけることすら不可能かもしれない。
そこで速人はふと気付いた。
「それよりも俺が妹探してるってよくわかったな?」
「……だいたい予想はつくわよ。妹って連呼しながら化物探してる素っ頓狂な人間を見かければね」
「そうかよ。あんな鎌ブンブン風車みたいに振り回してる女に言われたくねえけどな」
「そうね……」
皮肉のつもりだったのだが、遥はあっさりと肯定して黙ってしまった。
これまでなら毒を吐き返してきそうなものだったのに、何故か急に遥は大人しくなってしまった。
(あれ? 俺、なんかいけないところに踏み込んだか?)
不意に焦燥感が襲ってくる。
まるで嵐の前の静けさのようで、妙な空恐ろしさを感じる。
そしてそれは当たった。
「……了解」
「は?」
「あんたを化物退治パーティーに組み込んであげる」
いきなり遥は、そんな訳のわからないことを言い出してしまった。しかも何故か呆れ顔で。
「え? なんでだよ? ていうかどういうことだ?」
「あたしに同行してあの化物を殺させてあげるって言ってんの。そうでもしないとあんた、アレを探し回るでしょ? それってすごい迷惑よ。戦ってる最中にまた出くわして掻き乱されたらね」
「協力してくれるのか……?」
「そう言ってるんだけど、伝わらなかった?」
「いやでもお前……」
あれほど他者の介入を拒絶していた人間の台詞には聞こえなかった。けれど言いたいことは理解できる。命を賭けた戦いの最中にまたも余計な邪魔が入れば、遥とて危ないだろう。あの時はうまく速人を囮にできただが次はそうとは限らないのだ。
「そっか…………サンキュー」
念願が叶い、速人は素直に頭を下げる。
「けどね、それであんたの妹が見つかるわけでも帰ってくるわけでもないのよ? そこんとこ理解してる?」
「…………わかってるさ」
心臓を鷲掴みされた気分になる。
遥の言う通り、これは永と関係ない出来ごとの確率は極めて高い。なにせ何の確証もなく飛び込んでいる。
(けどあのクソオヤジが、ダメ警察が何カ月も調べても何も出てこないってことは人間の関知できることが起きてる可能性も少ないってことだ)
そう考えると、速人は父親の久に対して優越感すら覚える。あの憎い父親がひたすら働いても関われないことに自分は介入できたのだから。
それが意味のない、幼稚な感情だと速人は気付けなかった。
「あいつの巣でも見つけられたら何かあるかもね。遺体とか。まあ丸呑みされてたら、何も残らないけど」
「見つけてないのか?」
「二カ月ぐらい探してるけどダメ。町で出くわした回数ならそれなりにあるんだけど」
「そっか……やっぱりそう簡単に見つかるもんじゃないのか」
もっとも簡単に人目に触れているのなら、もっと大騒ぎになっているはずだ。あんな化物を目撃して口を閉ざしている人間はいない。
(じゃあ…………人が沢山殺されてるってことか? 冗談じゃないぞ……!)
目撃者を必ず殺して、この水那市を化物は闊歩している。想像しただけ速人はあの巨大な黒馬に追い回された恐怖が蘇ってくる。あんな体験はもう二度としたくない。
「それで」
安定した仏頂面のまま、遥は言う。
「あんた何ができる回復の僧侶? 前衛の戦士? 後衛の魔法使い?」
「え?」
「だからあの化物と出くわしたら何をしてくれんの?」
「…………なにか出来ないとまずいのか?」
不安げに尋ねる速人を見て、遥は軽くフッと一笑に付した。
「そうでちゅかー、神社速人くんは何もできないんでちゅかー? それでよくあの化物を追いかけようとか思いまちたねー」
「素手で殴り合ってやろうか!?」
わりと本気でむかつき怒鳴るも、遥はキャッキャ笑うだけで反省などしていない。
「いやだって、マジでアホだなってね。ププ……!」
「俺はお前と違ってノーマルなんだよ!」
「んじゃそのノーマルくんはまた囮でもしてくれる? 失敗したら犬死するけど」
「それは嫌だけど…………ああ、参ったな。どうすりゃいいんだっ……」
今更ながらに速人は焦る。化物のことを知るだけで頭が一杯で何も考えていなかった。遥が化物にどれだけ精通しているかはわからないが、だからといって永があの化け物と出くわしたかなど把握しているはずがない。
「はいはい、そんなに落ち込まなくてもいいわよ。どうせそんなことだと思ってたからね。じゃあ探索は明日の夜にして、あんたの特訓をしないとね」
「そんなことまでしてくれるのか? いや、それよりもノンビリしてていいのかよ?」
「じゃあ囮役よろしく。頑張ってあたしのために隙を作ってね。あたしが連れてくって決めた以上、どんだけ無力だろうと絶対にあの化物のところへ連れて行くわよ?」
目こそ笑っていたが、遥の体からは『逆らったら武力行使』というオーラが立ち昇っていた。拒絶すれば間違いなく実行に移されるだろう。
「わ、わかった。従うからその恐い雰囲気を消してくれ」
「これくらいでビビってどうすんだが」
「……どっちかって言うと、お前のほうが怖い気がする」
間違いなく遥に化物よりも酷い目に遭わされた回数の方が多いだろう。
その張本人は速人への仕打ちを気にも留めず、思案にふける。
「んじゃあ、明日は学校休みだから……。朝九時に凶月の診療所前で待ち合わせね。場所覚えてる?」
「なんとかな」
「んじゃ、それでよろしく。ノッポ先輩」
「神社速人だ。背のことをあんまり弄るな」
小学生の頃からやたらと長身であったため、速人は友達によくからかわれた。
苦々しい速人の顔を見て、遥は心底嬉しそうだった。とことんサディストである。
「気が向いたら名前のほうで呼んでやるわよ。嬉しい? 可愛い後輩に名前呼ばれてさ」
「ムカつくの間違いだろ。で、俺はお前をなんて呼べばいいんだ?」
本当に今更だが、速人は尋ねた。
「名前で。名字は嫌いなの」
「ああ、そういえば大応って読み方面白いな。1999年に現れるとか言われてたアレにそっくりだな」
「あははー、その続き喋ったら殴るわよ」
「沸点低いな……」
やれるのが嫌ならからかわないで欲しい。
そんなことを言い合っている内に、二人は分かれ道に行きあった。
「じゃ、あたしこっちだから」
また明日、と遥は速人と別の道に歩いて行った。
まるで普通の学生のように。
(また明日……か)
遥の後ろ姿を見ながら、速人は複雑な気持ちになる。
妹の生死を確認するために、殺し合いの道に入る。
正確には殺されるかも知れない危険を侵すことになる。
(…………全ては、永のためだ)
速人も帰途につく。
まずは家に帰ろう。
あの父親には何も言わない。
あの父親とは、何も話したくないし、こっちの協力なんかさせてやりたくない。
全ては明日から。
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