二月十八日土曜日

■魔導書


 土曜日。
 時刻は午前十時頃。
 海西学園は休日である。
 その休みの学園の中、絢と小春は学校に来ていた。
 理由は、小春の学園への編入手続きのためである。
 大体のことは既に絢が手を廻して手続きしていたが、本人確認やら説明やらでどうしても本人が行く必要があったのだ。
 その道の途中、絢が小春に話しかける。
「どう? なにか思い出したこととかある?」
 訊いているのはもちろん小春の記憶喪失に関してのことだ。
「いえ…特に思い出せたことはないんです……」
「そっか」
 小春がなにかを思い出した様子はなかったが絢はあまり落胆した様子はなかった。なにしろ日常生活に影響が出るほどに忘れているのだ。そう簡単に思い出せるものでもないだろう。
 ただ、この数日見てきて、絢にも分かったことがある。
 一つは、小春はおそらく魔法使い、あるいは能力者のどちらかだ。
 ただ魔法が見えるからという理由からだけではない。
 二つ目、伊吹小春という存在そのものが存在しないからだ。
 絢は組織などに連絡して小春のことを探ってもらっていたが、その結果が今朝届いた。その結果は、伊吹小春は存在しない人物だということだ。同姓同名の人物は他にもいるが、その全ての存在が確認されていた。
 ならばどういうことなのか。
 今ここにいる伊吹小春はどこかから跳ばされて来たのではないかというのが一つの推理だった。
 その推理が正しいかどうかはまだ分からない。ただ、可能性の一つではある。
 だとすれば、再び魔法あるいは能力を使えるようになることで記憶が戻る可能性は十分にある。
 それが、絢が小春を巻き込もうとする理由だった。もちろん、小春自身がそれを望まなければ無理に巻き込むつもりはなかったが。
 それとは別に、ただの一般人だった場合は学校に通うことでなにか思い出す可能性がある。また、違ったとしても学園に通わせることは小春にとって良いことだと考えていた。やっぱり学園というのは年相応の子が通う場所なのだから。
 と散々書いてきたが、実はこれは全部初羽の言葉である。
 昨日小春がメイの部屋に移った後、絢が初羽に相談してきたのだ。
 絢も小春をこのまま魔法の世界に関わらせていいものか悩んでいた。
 初羽は、小春を関わらせないのも一つの手段ですよ、と言ったが結局上のように絢をフォローしてくれていた。
 たしかに絢は自分でも甘いと思っているけれど初羽ほどではないと思っている。だけどきっと初羽は実は自分が絢以上に優しいってことに気付いていない。
 だけどそれは――
「絢さん?」
 急に黙ってしまった絢を気にするに小春が声をかける。
「ん、なんでもない。行くわよ」
 絢は小春を引っ張って学園に行く。
 さっきまで考えていたことを振り切るように。
 でもそれはしばらく頭を離れなかった。
 だけどそれは――哀しい優しさだ。
 絢でも全てを知らない初羽の過去から来る、優しさ。


 ほぼ同時刻。
 初羽とメイは廃ビルが立ち並ぶ場所を歩いていた。
 二ヶ月前、初羽と絢が気配を感じ、また事件が起こった現場である。
 今朝、一人出て行くメイを心配して初羽がついてきたのである。絢もこのことは知っている。
 光が射し込んでいるとはいえ、人気のない廃ビル街はあまり気分のいい場所ではなかった。
 ビルの周りをうろついたり、ビルの中に入って調べたりしているメイの後ろを初羽が付いて行く。
 その間、特に二人に会話はない。
 初羽はメイについて行きながら、自分でも周りの気配に注意していた。
 二人が廃墟に来た理由の一つは、メイが廃墟で戦闘が起こった気配を察知したからである。
 どうも昨日の内になんらかの魔法を施しておいたらしく、メイは今この街における魔法の気配をある程度察知出来るらしい。
 ただし、メイ曰く隠密性を優先してあるので性能はあまりよろしくないとのことだった。
 それで実際に見に行ってみようという話になったのだ。
 あくまで偵察が目的なので誰にも見つからないようにではあるが。
 もう一つの理由は昨日昇降口で会った男女のことである。
 昨日の様子からすると彼女たちは化け物を追っている。そして化け物が現れたことがあるこの場所で会う可能性は決して低くはなかった。
 会ってしまったらそれはそれだが、昨日の今日で彼女を刺激するようなことはしたくなかった。
 だから今日のところは会わないように行動していた。
「…初」
 メイが初羽に話しかける。
 突然のことで驚いたが、初羽はそんな素振りも見せずに応える。
「なんですか?」
「…昨日、初は私に訊きましたよね」
 それを聴いて思い出す。
『わたし…メイと逢ったことがあるんですか…?』
 最後に初羽がメイに投げかけた疑問。
 だけどどうして今?
 それが初羽に疑問を抱かせる。
「…正直に言いますが、私は初を知っています」
「はい。それはなんとなく分かります…」
「…ただ、初羽は私に会った記憶はないはずです」
「…はい」
 メイの言うとおり、初羽にはメイと会った記憶はない。
 でも、ならどうしてメイは初羽を知っているのか。
「…萩原百(はぎわらもも)、という人を知っていますか?」
「百ですか? 知っていますよ」
 萩原百というのは初羽の文通相手で今でも手紙のやり取りをしている人だ。
 初羽が病院暮らしをしていた頃からの友達であり、付き合いの長さは絢よりも長い。当時の初羽の力になってくれた大切な友達である。
 二ヶ月前の事件の前後でも文通し、その時の気配について訊いてみたこともある。結果としては何の情報も得られなかったが。
 萩原百も魔法の素質があるのか、クロの姿を見ることができる数少ない人間の一人であり、魔法の事情についても精通しているが、本人は魔法が使えないと言っている。しかし、魔法の情報について強いコネを持っているのか初羽や時には絢が知らないような情報まで持っており、初羽たちの重要な戦力でもある。
 メイと百が知り合ったのもそういった情報の面で協力してもらったことがあるからなのだろう。
 だけどそれにはどこか違和感が付き纏っていた。…それが何なのか初羽には分からなかったが。
「…私がこの街に来た本当の理由の一つは、この街に私が探しているものがあるって聴いたからです」
「それって…」
「…魔導書(グリモア)」
「!」




 しばらく時間が経過して昼の十二時。絢と小春、初羽とメイはそれぞれの用事を済まし女子寮の201号室、つまり初羽たちの部屋に集合していた。
 結局、初羽たちの調査は何の成果もなかった。
 今日が休日だからか、寮の中は閑散としている。
「さて…」
 絢が小春に話しかける。
 その表情には、小春に魔法を話した時よりも真剣な表情が浮かんでいた。もっとも、これから話す内容を考えれば仕方ないことである。
「初、本気?」
「はい。責任は私が取りますから」
 絢は初羽に確認する。
 最初、絢はこれから話すことはメイには内緒にするつもりだった。というのはこれから話すことは他人に関わらせるべきではない類のものだからだ。小春はいい。何の力も使えないからだ。だがメイは魔法使いであり、つまり魔術師である絢よりも上位の実力者である。もしこれから話す内容を悪用でもされたら大変な事態になる。
 その上で初羽は絢にメイにも話してほしいと頼んだ。今までの付き合いがなければ絢は断っていただろう。だけど初羽が何の根拠もなく絢の考えに意見することはない。だから絢は初羽にメイを信用するに値する何かを知っていると思っていた。事実、初羽はメイにこれからする話をしても大丈夫だと考えていた。
「…分かったわ。じゃあまずは実物のところまで行くわよ」
 そう言って、絢は小春とメイにビー玉を一つ手渡す。
 小春はそれを透かしてみるが、一昨日のような赤い色ではなく、不透明な、濁った白色をしていた。
「えっと…」
 ビー玉を手渡されたのはいいものの、どうしたらいいのか分からず小春は戸惑ってしまう。
「そのビー玉には転移魔法みたいなものが込められてるの。発動すると別の場所に張ってある魔法陣に引き寄せられるっていうものなんだけど…まぁ、実際に使ってみた方が早いわね」
 絢はポケットから同じようなビー玉を二つ取り出し、一つを初羽に、もう一つは自分の手に持った。
「じゃあいくけど…初、大丈夫?」
 絢が初羽を気遣うように訊いてくる。
「クロもいますから大丈夫ですよ」
 初羽は肩に乗っているクロに言うように答える。
 もっとも、小春には今の二人のやり取りが何を意味するのかは分からなかった。
「じゃあ行くわよ。 RUN!」
 絢がそう言った時、小春は自分の体が何かに引っ張られるような感じがした。

 次の瞬間には、小春は見知らぬ部屋にいた。
 さっきまで居た部屋と比べて、格段に広い部屋で、布張りの三人掛けのソファが二つにテーブルが一つ、テレビもあるしキッチンもある。
 最初はその広さに館の応接間にでも迷い込んだかのように感じたが、シャンデリアが飾ってあるわけでもなく普通の蛍光灯だったし、家具もその辺の家具店で揃えられそうなものばかりで、広さ以外は家のリビングのような空間だった。
 足元には魔法陣が書かれており、まだ微かに光っているようだった。
 魔法陣はそれなりの大きさがあり、小春の他に絢と初羽も…
「初さん!?」
「はぁ…はぁ…」
 初羽のその様子を見て、小春は驚く。
 初羽は胸に手を当て、苦しそうにしていた。
 クロも肩から降り、絢が初羽を支えている。
 初羽の様子は、まるで発作でも起こしたかのような感じだった。
「…初、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶです。ちょっとすれば落ち着きますから…」
「とりあえず座ってなさい」
「はい…」
 自力で歩けるだけの体力はあるらしく、初羽は自分の足でソファまで歩いて行って倒れるように座った。
 クロはその隣で丸くなり、絢はキッチンに行った。
 小春はもう一つあるソファに座り、初羽の様子を見守ることにした。
 メイは部屋の中を探検していたが、それでもちらちらと初羽の様子を気にしていた。
「大丈夫ですか、初さん…?」
「だいじょうぶですよ。すぐに治りますから…」
「はいお茶。小春もどうぞ」
 キッチンから戻ってきた絢が四人分のコップを持ってくる。
 それをテーブルに置いて、絢が小春に話しかける。
「初はね、魔法と相性が悪いの」
「魔法と相性が悪い…?」
 小春はその意味がよく掴めなかった。
「そう。一昨日私が言った魔法の技術の相性うんぬんとかじゃなくて、魔法を使うための魔力そのものと相性が悪いっていうのかな? いつもは二人分の転移魔力量で済むんだけど今日は小春やメイも居たから」
「ご、ごめんなさい…」
「いえ、小春さんが謝ることじゃないですよ…」
 初羽はそう言って小春をフォローする。
 自分が苦しんでいても他の人を気にするあたりがなんとも初羽らしい。
「それに、いつものことですから…」
「いつもの?」
 初羽のその言葉に小春は疑問を抱く。
「一昨日の初の能力は覚えてる?」
「あ、はい」
「一昨日は特に力を酷使しなかったから問題なかったけど、あれだって使い過ぎると初にはかなりの負担になるらしいのよ」
「そうなんですか!?」
 そんな能力、使ってもらってよかったんだろうか。と、小春は微妙に気になった。
「昔に比べたら、全然だいじょうぶですから…」
 さっきよりは初羽の呼吸も安定してきていた。普通にソファに座り、絢が入れたお茶に手を伸ばす。
「心配かけてごめんなさい…」
「心配ぐらいかけさせなさいよ。友達なんだから」
 絢はそう言って苦笑する。
 その苦笑は変わらない彼女に対してのもの。
 初羽が謝るのはいつものことだから。
「じゃ、本題に入るわよ。一昨日の話の続き」
「は、はい!」
 初羽の発作は本当に一時的なものらしく、もうさっきまでの彼女は見られなかった。初羽が落ち着いたことを確認して絢が話を始める。
「まずここについてだけど、ここは水那市の郊外にある私の別荘のような場所よ」
「べ、べっそう…」
 小春は、まず別荘というものがあること自体に驚きだった。
 確かに言われてみれば広いしそんなような感じはしなくもない。
「正確にはここに封じてあるモノを隔離している場所と言った方がいいかしらね」
「ここに封じてあるモノ?」
「そうよ。そしてそれが小春に見せたい証拠ってわけなんだけど…」
 と、ここで絢は一拍置いて言った。
「正直、危険な場所よ」
「き、きけんですか…」
 絢の態度からそれが冗談ではないことは察していたが、小春にはそれがどの程度の危険を伴うのかまでは分からない。
「できればなにか自衛の魔法が使えた方がいいんだけど…」
 小春を見ながら言う。
「今までの様子じゃ、魔法の一つも知らなさそうね」
「うう…すみません…」
 別に小春が謝るようなことじゃないのだが…。
「まぁいいわ。とりあえず初の側に居れば大丈夫でしょ」
「いえ…さっきまで苦しんでいた人に頼むのはちょっと……」
「だいじょうぶですよ。クロとの能力でしたらあまり負担にはなりませんから」
「そうなんですか?」
「そ、さっきのは私の魔力を使用したから身体に負荷がかかったのよ。初の言い方を借りればね」
 絢は以前、初めて初羽をここに連れてきた時にも同じ症状を発症させていた。
 その時に、初羽が絢に自分の症状の原因を同じように説明したのだ。
 もっとも、絢からしたら魔力はどれも等しく同じ魔力に感じるので個人の魔力の性質の差異を感じることができない。実際、本当は差なんてないのかもしれない。
 しかし絢は初羽に使う魔法は初羽からの魔力を使うようにするなどの配慮をしていたので、普段の初羽は今日みたいな発作をおこすことは滅多になかった。
 だが今日は小春とメイが居た分いつもより魔力が高くなってしまい、いくら自分の魔力といえども身体が耐えられなくなってしまった。そういうふうに絢は考えていた。そして初羽もおそらくそうなのだろうと考えている。
 実は初羽も自分のことではあるが、この自分の体質がよく分かっていない。
 昔は能力を使わなくても突然発作を起こすことも稀ではなく、まともに学園に行くことすらできなかった。
 今のように生活ができるようになったのも『あの事件』以降からだ。
 『あの事件』は初羽にとって人生の三大事件の一つであった。…それは彼の。
 ――でも、今はそれを邂逅する時じゃない。
 ともかく、初羽は『あの事件』以降ある程度の魔力なら耐えられるようになっていた。しかし、今回はその魔力の容量を超えた。だから耐えられなくなった。それだけのこと。
 移動魔法は個人の素質にもよるが基本的に魔力を多く使用することになる。だが、効力が一瞬のため魔力が残存する時間も短い。そのため、初羽の発作も短時間で済んだ。…のではないかと絢は考えている。
「じゃ、行きましょうか」
 絢は部屋の扉の一つ(なぜか部屋には扉が複数あった)を開け、小春も初羽に続いてその扉をくぐった。メイもその後に続く。
 扉の先は長い廊下になっており、絢が先導して小春は初羽と一緒に、メイはその少し後をついていた。
「一本道だから迷うことはないと思うけど結構長いから覚悟はしておいてね」
「結構…って、どのくらいですか?」
「10分ぐらいかしら?」
「そうですね、そのくらいだと思います」
「えっと…、それって長いですか?」
 10分なんて短い方だと普通は思う。
「確かに今日みたいに誰かと話しながら歩けば短く感じるけど、こんな何もない廊下を一人で歩いているとこの10分が結構長く感じるのよ」
「なるほど…」
 確かに何もしないでいる10分と、何かをしながらの10分では時間の進みが違うように感じる。絢が言っているのはそういうことなのだろう。
 しばらくするとつきあたりにエレベーターが見えてきた。
 エレベーターは四人を乗せて地下に向けて動き出す。
「もうここは結界内だから一応気をつけてね」
「えっ? 結界?」
 結界って何の結界なのか? いつの間に結界に入ったのか? そもそも何に気をつけるのか? 小春はまだ何も知らない。
 やがて、エレベーターは最下層に辿り着いた。
 そこは大きな、しかし何もない部屋であった。
 絢はその部屋を横切り、まっすぐ歩いて行った先の扉の前に立つ。
「ここよ」
 絢がその扉を開ける。
 そこはさっきと同じ大きな、だけど中は全く違う部屋であった。
 部屋の中央には台座があり、部屋全体が微かに青い空間だった。
 それは、部屋そのものが特別な意味を持っているかのような神秘的な場所であった。
 絢と初羽は部屋の中央にある台座に歩いて行く。小春もそれについていった。
 台座の上には表紙から三分の一程度のページが開かれた本が置かれていた。
「これが見せたい証拠よ」
 絢が言った。



    ――これが、物語の始まり
            その始まりを語る一幕――



「これが…証拠、ですか?」

 たしかに重厚なその本はなにか意味ありげなものに見える。
「魔導書って知ってる?」
「いえ、知りませんけど…」
「魔力を持った本、禁術・禁呪などが書かれた本、それ自体が生きている本。それら普通じゃない本を纏めて魔導書って呼ぶわ。ま、私の勝手な分類だけどね」
「あ、あはは…」
 絢の最後の一言に初羽が苦笑する。
 と言っても魔導書についての定義は特になく、一般では儀式の方法や魔法円やペンタクルのデザインが記された書物を指すことが多い。正式にはグリモワールと呼ばれるが、魔術書、奥義書、魔導書、魔法書は同義語として扱われることも多い。
 有名なところでは『ネクロノミコン』や『ソロモンの鍵』などがある。
「今のって笑う所だった? まあ私もこれ以外の魔導書って見たことないしこれが魔導書なのかも分からないけど」
 実際、魔導書なんて世に出回るものではない。世に広く知られている魔導書ですらその実態を知る者は全く居ないのだから。
「話を進めるけど、この魔導書は魔力を持った類のもので、それもかなり危険な類のものなの」
「かなりって…?」
「さあ? とりあえずこの街が消えることは保障するわ」
「そ、そんなにですか…」
 そんなことは保障されたくない。
「大丈夫よ。そんなことがないようにここに結界を張って封印してあるんだから」
「そういえばさっきも結界って」
「この部屋を中心に半径数kmぐらいの結界が張ってあるのよ。魔導書の魔力が外に漏れないようにね。だから結界が壊されない限りは大丈夫よ」
 絢が補足するには、この結界は簡単に壊されないように何重にもなっており、仮に一つぐらい壊れたとしても大丈夫な頑丈設計になっているらしい。
「でも、この結界を漏れてしまう小さな魔力がときどき出てくるの。それが一昨日の商店街で見たあの黒い塊よ」
「じゃああれって魔力の塊なんですか?」
「そうよ。この魔導書から漏れた、ね」
 とはいえ、街に溢れてしまう魔力は細かい網目から抜け出たゴミみたいなもので、それ単体では特に害もないらしい。
 しかし、放置しておけば街中に魔力が溢れかえってしまい、増大した魔力は災害を引き寄せる。だから、溢れ出た魔力はこまめに回収する必要がある。
 絢はその魔力をビー玉に封印することで回収しているのだ。
 そしてそれは魔力の塊であるから、絢はそれを自分の魔力として使うこともできる。
 普通に回収するのではなく、ビー玉に封印するという形を取ることで絢は本来消滅させるしかない魔力を利用していた。
「私の魔術師としての仕事の一つが、その街に漏れた魔力の回収ってわけ。理解できた?」
「は、はい。たぶん…。一昨日の商店街の黒い塊はこの本の魔力が溢れてしまったもので絢さんはそれを集めている、ってことですよね?」
「そうよ。小春は魔法の知識を正確に受け止めているみたいね」
 それは絢の説明が丁寧だからだと小春は思っていた。
 魔法が見えるとはいえ、何もできない小春は一般人とそう変わりない。
 そんな小春に魔法を説明する必要性はあまりないのだ。
 仮に魔法のことを知ったところで小春にできることは何もないのだから。
 だから、この説明は絢の親切にほかならない。
「? いま、仕事の一つって言ってませんでしたか?」
「ええ。もう一つの仕事がこの魔導書の無力化よ」
「そんなことできるんですか?!」
 結界をして封印をしなければいけないような魔導書を無力化なんて普通なら考えもしないだろう。
「やってやれないことはないのよ。ただ封印する方が簡単だし安全なだけでね。でも危険な魔導書ほど無力化する必要性はあるでしょ」
「それはそうですけど…」
「その方法の一つが、魔導書内部からの制圧。魔導書内部に潜り込んで仮想世界で具現化された敵を倒し、魔導書の魔力を減少させるって方法よ。イメージとしてはゲームを攻略していくようなものだと思ってくれればいいわ」
 もちろん、魔導書の力が強ければ強いほど、敵は強くなるし魔力を減少させるのも困難になる。書店で売られている一般の本がRPGでいう最初のダンジョンなら、魔導書はラストダンジョンどころか隠しダンジョン並みの難易度はある。とはいえ魔力の無い一般の本と比べること自体がそもそも間違っているのだが。
「…初」
「なんですか?」
 小春と絢から離れて話を聴いていたメイが初羽に話しかける。
 二人の距離は少し離れていたので初羽の方からメイに近づく。
「…今はどの程度無効化できているんですか」
「だいたい三分の一ぐらいです」
「…初羽が知る限り、一年でどのくらい無効化できていますか」
「………」
 初羽は口籠る。
 今は三分の一ほど無効化できているがそれを為すのにどれほどの時を費やしたのか。
 いくら魔導書を無効化することが可能だとしてもそのペースが1000年かかるのでは話にならない。
 実のところ、最近は魔導書の無力化も困難になってきていた。
 理由の一つに、魔導書に潜るのに初羽が同行しなくなったというのがある。
 潜るたびに能力を使用して辛そうにする初羽のことを気にして絢がいつの頃からか魔導書に潜るのに初羽を連れて行かなくなったのである。
 だが、絢は絢で魔導書の結界に自分の魔力のほとんどを割いているため大した力を使えない。それでも魔術師を名乗れるほどの実力者ではあるが、単純な戦闘力でいったら初羽よりも低いだろう。
 そのため、一時期に比べ魔導書に入っても魔力を無効化するのが困難になり、ペースは遅々としたものになっている。
 初羽の口籠った様子からメイもそれを感じていた。
「…このグリモアは今すぐにも無効化するべきなんです」
「あの…訊いてもいいですか?」
「…はい」
「一応、この魔導書は封印されてるし結界も張ってあります。どうして今すぐに無効化する必要性があるんですか?」
 初羽の言うとおり、この魔導書には絢が張った結界以外にも元々施されている封印や他の結界もあることから特に危険ではないとされている。
 メイの派遣された組織から魔導書の監視要員が派遣されていないのも、絢だけが魔導書の無力化を行っているのも、魔導書が封印されて安全だという前提があるからだ。
 だから、今すぐに無力化する必要性はないはずだった。
「…このグリモアを使って、よくない事を企んでいる輩がいます」
「それって…」
 もしそれが本当なら大事である。
 だけどそれが何者で、どうしてメイがそれを知り得たのか。
「その輩っていうのは誰なんですか」
「…近い内に分かると思います。たぶん向こうから現れると思いますから」
 メイはそれだけ言って、絢の方に歩いて行った。
「…絢、魔導書の中に案内してもらえますか」
「…ま、そうくるとは思ってたわ」
「で、でも危険なんですよね…?」
 小春がおどおどしながら確認する。
「…小春もいますし、いきなり本格的な活動をするとまでは言いません。既に無効化にした領域まででいいです」
「分かった。それなら連れて行ってもいいわ。小春もついてくる?」
「は、はい! ご迷惑でなければ…」
「大丈夫ですよ。いざという時は私が守りますから」
「初もついてくるの?」
「気にしないで下さい。無効化した領域でしたら能力を使うこともないですから」
「…わかった。無理はしないでよ」
 絢が魔導書に手をかざす。
「行くわよ。 Dive!」

 体が吸い寄せられるような浮遊感とスピード感。
 一瞬の内に、初羽たち四人は魔導書の中にダイブしていた。
「ここが魔導書の中よ」
 周りは果ての見えない空間が広がっており、空間の中心には魔法陣が書かれていた。
「ここはいわゆる魔導書のエントランスね。中央の魔法陣から魔導書を脱出したり他の領域に転移したりできるわ。この空間では敵は出ないから安心して」
 絢が一通り説明をする。とはいえ、この場所はただの入り口に過ぎないので長居する理由はない。
「…絢、敵というのを見せてもらえますか?」
「そうね。そんな強い敵じゃなければ」
 絢が魔法陣の上に立つ。
「それじゃ行くわよ。 Move,AreaC1!」
 再び訪れる浮遊感とスピード感。
 気がつくと、今度は草原の上に立っていた。
「ほ、本当にゲームみたいです…」
 最初のダンジョンで訪れそうな、いかにもな草原。絢がゲームに例えたのも分かる。
「Cエリアで敵がいるとしたら廃墟の方向ですね」
「そうね。少し距離があるから歩くことになるわね。転移魔法も使えないことはないけど…二人はどっちがいい?」
「こ、小春は歩いて行ってみたいです」
「…私はさっさと行きたい」
「見事に別れたわね…。初はどうしたい?」
「二人は初めてですから歩いて行きましょう。帰りは転移すればいいですし」
「じゃ、そうしましょ」
 初羽と絢、小春、メイは草原を歩いて行く。
 しばらく歩いていくと周りに崩れた壁跡が見えてくる。
 さらに歩くとそれも多くなり、いわゆる廃墟みたいな場所なのだと気付く。
 それはまるで本物のようなリアリティがあり、また現実にはあり得ないだろうヴァーチャル感があった。
 実際、壁に触れればそれは崩れるが、壁に触れた手には汚れが付かない。
 現実のようで、やはり仮想世界ということだろう。
「ところでさっきからC1エリアとかC8エリアって言ってますけど…」
「ああ、それも説明しないといけないわね」
 この魔導書の仮想世界にはたくさんのエリアがあり、A1~Z9エリアまである。
 主要なエリアは26あるので、アルファベットを振ることで区分を、そしてそのエリアの中を細かく数字で9に分割してエリアを設定している。
 これは絢が魔導書の無力化をする際に、魔力を26に分割させたため、それが26のエリアとして現れたのだという。
 基本的に1エリアの敵の総力は魔導書の魔力の26分の1であると考えていい。実際には、色々な要因が絡み合っているのでもっと小さい値であると考えられる。
 エリア間の魔力の移動は出来ないので、一度そのエリアの魔力を無効化すれば二度とそのエリアで敵が出てくることはない。これを無力化したエリア、あるいは無効化した領域と言う。
 そしてエリア内にはエントランスに戻れる魔法陣が点在しており、行き来が出来る。そういう魔法陣が9つある。
 その魔法陣から行くのが一番近い領域内を数字で魔法陣の数の9に割っている。よって、数字の区分はあまり正確な区分ではない。転移座標とでも言った方が正確かもしれない。
 そしてゲームでもお約束で、それぞれ26のエリアにはエリアボスと言うべき強い個体がおり、エリアに存在する敵は全てそのボスが統括しているので、ボスさえ倒せばそのエリアは無力化したことになる。
 基本的にボスは動くことなく、エリア内のどこかに潜んでいるが、動き回るボスもいるため一概には言えない。中には条件を満たさないと現れないボスもいるためそういうエリアは後回しにせざるをえなくなる。
 絢たちが居るCエリアも以前は廃墟に入ることが出来なかったため、後回しにされていたエリアであった。
 他にも隠しエリアとかあるため、そういうエリアはリストにしてエントランスで管理してある。もっとも、普段行くこともないが。
 説明をしているうちに、初羽たちはある廃墟の扉の前に辿り着いた。
「さて、と。小春、ここから先は初からあまり離れないように」
「わ、分かりました」
「いくよクロ。 コンファイン」
 初羽が一昨日と同じ能力を使う。
 クロが初羽と一体化し、初羽から耳と尻尾が生える。
「それじゃ、開けるわよ。いきなり襲いかかってくるかもしれないから気をつけて」
 絢が扉に手をかける。
 扉が軋んだ音を立てて開いていく。
 用心するがいきなり何かが飛び出してくる気配はない。
 初羽が最初に、続いて絢、小春、メイの順に中に入る。
 中は大きな空間になっており、まるで倉庫のようだった。
 天井は崩れ落ちており、光が射し込んでいる。
 中には黒い獣が五匹居た。
 姿は犬の形だが、どこか一般の犬とは違う。
 それこそが、魔力そのものである敵。
 野犬なんかと違い、明確に敵意を剥き出しにする敵。
 それは、命を賭ける戦い。
 相手は大型犬サイズの獣が五匹。
 こちらは小春を除いた初羽、絢、メイの三人。
 獣が一匹、初羽目がけて襲い掛かってくる。
 初羽は腰を低くし、回し蹴りの要領で襲い掛かってきた獣を蹴り飛ばす。
 獣が右方向の壁にぶつかる。
 絢がポケットから赤いビー玉を二つ取り出し蹴り飛ばされた獣に投げつける。
 ビー玉から炎が噴出し、獣を焼き焦がし、獣がその姿を消す。
 残った獣が一斉に襲い掛かってくる。
 絢が自分に襲い掛かってきた獣の一匹を横っ跳びで回避する。
 そしてすぐにポケットから水色のビー玉と黄色のビー玉を取り出す。
 水色のビー玉を獣に投げ、黄色のビー玉は上空に投げる。
 水色のビー玉は氷の塊となって獣の身体中に突き刺さる。
 そして黄色のビー玉が雷となって獣に降り注ぐ。
 獣の姿が塵になって霧散する。
 その間、獣の一匹はメイに襲い掛かっていた。
 だがメイは獣に臆することなく避けることもせずただ一言唱える。
「詠唱省略、ファイアアロー」
 右手を払うと火の矢が三本獣に向かって飛ぶ。
 矢は全て獣に突き刺さるが、獣の勢いは止まらない。
「バースト」
 獣に突き刺さった矢が爆ぜる。
 同時に獣も爆ぜ、その姿を消失させる。
 そして残る二匹は初羽と、その後ろの小春を狙った。
 一匹が初羽に跳びかかる。
 初羽はその獣を腹から蹴りあげる。
 その隙を狙って残る一匹が小春目掛けて駆ける。
 小春はその獣を避ける術を持たない。
 だが、初羽はその獣を逃がしはしない。
 獣を蹴りあげた足で地を蹴り、その勢いのまま小春を狙った獣を蹴り飛ばす。
 勢い付いた蹴りは獣が蹴り飛ばされてぶつかった壁にヒビを入れる。
 逆足で地面を抉りながら自らの勢いを止め、最初に蹴り上げ今なお宙に浮いている獣目掛けて跳ぶ。
 初羽は宙で獣を地面に向かって蹴り落とす。
 落ちる勢いに蹴る勢いが加わった力は地面に蹴り付けられた獣を霧散させる。
 後に蹴られた獣は、手が空いた絢によって最初に蹴られた獣と同じように炎に焼き焦がされその姿を消す。
 五匹全ての獣の姿が消える。
 この間、わずか一分足らずの出来事だった。
 その間に戦いは終わっていた。
 後に残るのは、最初に扉を開けた時と変わらない景色。
 命を賭した戦いの跡などどこにもない。
 小春はその出来事に呆(ほう)けていた。
「大丈夫でしたか? 小春さん」
 初羽が小春に声をかける。
 初羽も絢もメイも平然としていた。
 彼女たちにとって、こんな戦いは珍しいことでもなんでもない。
「…雑魚じゃあんまり参考にならない」
「我慢しなさい。今日は小春が居るんだから」
「…わかってます」
 この中で、小春はお荷物なのだ。
 それをさまざまと実感させられた。
 特に初羽の身体能力は小春との差を明確にしていた。
「さて、私としてはもう少し調べていきたいところなんだけど…」
「…同意」
「駄目ですよ。小春さんが居るんですから」
「うぅ…すみません……」
 本当に申し訳なくなる。
「気にすることないわよ。命を賭ける戦いなんか関わる必要ないんだから」
 それでも、何の力にもなれないのは辛いことだ。
「さ、戻りましょう」
「おおっと、もう帰っちゃうのかい? もっと楽しんでいきなよ」
 頭上から突然声が聴こえる。
 見上げると壁の淵に誰かが座っていた。
 道化師の衣装を纏い、仮面をつけて初羽たちに視線を向けている。
「誰!」
 絢が正体不明の人物に向かって叫ぶ。
「だれ? だれと言われても答えられないなあ。なんせボクには名前がないからね。人からはピエロと呼ばれているけど好きなように呼んでくれていいよ。マイケルでもジョニーでも好きなように呼んでくれよ」
「ピ、ピエロさんですか…」
 小春がさん付けで呼ぶとなぜか敵対心が薄れる。
「詠唱省略、ファイアアロー!」
「おっと!」
「メイ!?」
 突然メイが放った五本の矢をピエロは機敏な動きで回避する。
「危ないじゃないか人が話をしているときに」
「…やっぱり、ここに現れると思いました」
「そうかい? 久しぶりと言うべきかい?」
「…結構です」
「メイ、あんたの知り合い?」
「知り合い? そうだねぇ、知り合いといえば知り合いだねぇ。だ・け・ど、ボクが用があるのはメイでもないんだよ」
 ピエロの目が残る一人に向けられる。
「………」
 初羽だ。
 思えばピエロが現れた時から初羽は一言も言葉を発していない。
「久しぶりだねえ初羽。元気にしてたかぃ? およそ一年ぶりの再会だけどボクのことは忘れてないよねぇ?」
「………」
 初羽は応えない。
「そういえばあの時の彼はどうしたんだい? 今は一緒じゃないのかい? まあ一緒に居るわけないだろうねえ」
「………」
「初…?」
 絢が、そして小春が初羽を心配そうに見る。
 だが、初羽の表情を見た二人は思わず身を引いてしまいそうになる。
 見る者に恐怖を感じさせるほどの深い、憎しみの目。
 そんな目を、そして今の初羽と似た雰囲気を絢は最近感じたことがある。
 それは昨日、放課後に昇降口で出会った女子と似ていた。
「…それで、何の用ですか」
 初羽が初めて言葉を発する。
 言葉こそ丁寧だが、その裏には深い憎しみが感じ取れる。
「思ったよりも冷静だねぇ。キミのことだからボクの挑発に乗ってくるかと思っていたのに。いや、それとも冷静なフリをしているだけかな?」
「………」
 初羽は応えない。
 それはピエロの言葉を肯定しているようにも見えた。
「ボクが求めているのはボクの脚本をより面白くしてくれる登場人物さ。特に特別な能力を持っている人物、あるいは魔導師クラスの魔法使いであるのは最低条件だね。弱い人間はボクの脚本には要らないから。その上で幸福を奪われてなお生き続ける人間が、ボクの求めている主人公さ。最高に滑稽なストーリーになると思わないかい? 他の人にはない強い力を持っているのに大切なモノを何一つ守れず、未来に希望を見出せない、それでも生き続ける人間がどんな滑稽な物語を紡ぎだすか見物じゃないか!!」
「いい加減に!」
「絢!」
 激怒した絢を初羽が止める。
 本来なら初羽が怒る場面だというのに。
 口にこそしてないが小春も怒っているしメイも怒っている。
 ただ初羽が手を出さないから我慢しているだけで。
 その初羽だって内心は激怒していた。いや、それどころか今すぐにでも相手の喉を切り裂きたいくらいに。
 だがそんな精神状態でも初羽は努めて冷静であった。それは生来感情を隠しながら生きてきたから出来たことでもある。
 ピエロは物語を面白くするために様々な奸計を張り巡らすのが得意だ。それを初羽は過去の経験から知っていた。
 過剰な演出をすることで相手を煽り、壇上に乗せるのはピエロの得意分野だ。
 相手の演出にわざわざ乗る必要性などない。
 それにこのピエロという人物は見た目以上に手強いことを初羽は知っていた。
 今の状況では無理に相手をするのは逆に自らの危険を招くことにもなる。
 だから初羽は自分のプライドを押し殺してでも耐える必要があった。
 友達を、危険な目に遭わせないために。
 二度と、大切な人を失くさないために。
「それで、私をスカウトに来たわけですか。随分と評価してくれているみたいですね」
 初羽の言葉の端々からいつもからは考えられないほどの憎悪が滲み出ている。
「残念ですけどお断りします。他の人でも誘ったらどうですか」
「つれないなあ。でもキミがどう思おうとボクには関係ないんだ。それにキミは前から目をつけていたんだ。ここでキャストの変更なんて興醒めじゃないか」
「キャストが変わっても最高の舞台にするのが脚本の腕の見せ所じゃないんですか」
 初羽のあまりにも露骨な嫌味にさっきまで怒っていた絢や小春、メイも多少の溜飲が下っていた。
 絢もメイも冷静になって戦闘態勢に入る。ピエロという人物との戦いが不可避であることは誰の目にも明らかだった。
「それで、今日は私に何の用なんですか」
 初羽が戯言はこれまでとでもいうように言う。
「なに、これから物語が進むに従ってボクとキミ達は必ず交じり合う運命になるからね。今日はそんなキミ達にちょっとした挨拶をしに来ただけさ」
「そうですか。ではさようなら」
 初羽はこれで話は終わりだというかのように言う。
「おっと、話はまだ終わりじゃないんだな。ただ挨拶してサヨナラじゃつまらないと思わないかい? だから今日はキミ達にプレゼントを持って来ているのさ。きっとキミ達も気に入ってくれるだろうよ」
 ピエロが右手を鳴らす。
 目の前の空間が揺らぎ、そこから一体の魔物が飛び出してくる。
「■■■■■■■■……!」
 興奮した犬のような喧嘩をしている猫のような、どちらとも違う奇妙な鳴き声。
 身体が異常なまでに膨れ上がって見える全身真っ黒の馬がそこに居た。額には稲妻のような傷も見える。
 頭は廃墟の壁より高い位置にあり、もし天井があったら入りきらないほどの大きさだ。
 それは明らかに先ほどの犬型の魔物の比ではなかった。
 巨大な黒い馬の化物。
 その言葉を初羽と絢は既に聴いたことがあった。
「どうだい? コレはレプリカだから本物と同じとは言えないけれどそっくりだろう? 強さも本物そのものさ」
「この街で起きた事件はあなたの仕業だったんですか」
「ノン、ノン、ノン。あれはボクとは関係のないことさ。だけど趣向としては面白いだろう?」
「悪趣味です」
 なにしろ昨日出会った二人が追っていたのと同じ化物がレプリカとはいえ目の前に居るのだ。
 知らなければ何も思わなかっただろうが、既に初羽たちは目の前に居る化物(これはレプリカらしいが)が何をしてきたものなのか察してしまっている。
 二ヶ月前、廃ビルで感じた気配はおそらくこの化物と同じものなのだろう。
 そう考えるとこの馬の化物は初羽たちにとって因縁の全くない相手というわけではない。
 むしろ水那市を守る魔法使いにとっては因縁の浅からぬ相手ということになる。
 そこまで分かった上でピエロはわざわざこの馬の化物を模した魔物を初羽たちにけしかけてきているのだ。
 これを悪趣味と言わずしてなんと言おう。
「先に言っておくけれど逃げようなんて考えても無駄だよ。コレはこのエリアのボスも兼ねてるんだ。ボスから逃げられないのは常識だろう?」
 もちろん、これはゲームではないのだから逃げようと思えば逃げられる。
 だがピエロが言っているのはそういう意味ではない。
 ピエロはこのCエリアを封鎖して出られないようにし、その解除条件を目の前に居る馬に設定したということだ。
 つまり、この馬を倒さない限りここから脱出することは叶わない。
「まあボクだって鬼じゃない。ボス戦前の作戦タイムぐらいはキミたちにもあげるよ」
「それは親切なことで…」
 といっても、ここでいきなり襲われたらひとたまりもないのは初羽も分かっている。ここはピエロの話に乗るしかなかった。
「ど、どうするですか?!」
 小春が初羽たちに訊く。
「絢、ビー玉はあといくつ残ってるんですか?」
「十個。とてもじゃないけどあれを倒すほどの余力はないわ」
「それなら絢は私と交代で小春さんを守ってください。私があれと戦います」
「分かった。気をつけなさいよ」
「メイ、援護をお願いできますか」
「…分かりました」
 初羽とメイが馬の化物と対峙する。
「だ、大丈夫なんでしょうか…」
「小春、ちょっとこっち向きなさい」
「はい?」
 小春が絢の方を向くと絢がビー玉を小春に向けていた。同時にビー玉が光り、小春の中から何か湧き上がるような感じがする。
「な、なんですか?!」
「小春の身体能力を上げたわ。これで少しは動けるようになるはずよ」
 言われてみれば小春は自分の身体が軽くなったような感じがしていた。
 そして、自分の身体が軽くなるという感覚を小春は以前にも感じたことがあるように思っていた。だけど、それが何時のことなのかは思い出すことができなかった。
 絢は自分にも同じようにビー玉を使った後、残るビー玉の内六個を取り出す。
「それとこれを持ってなさい。いざという時に発動する自動障壁の術式を組み込んだわ」
 絢が六個のビー玉を小春に渡す。
 これで絢に残っているビー玉は二個だけだ。 
「初、残りの二つはあなたに渡しておくわ」
「え!? そ、それじゃあ絢さんのが…」
「この戦い、私が出る幕はなさそうだしね。それなら使える人が持っていた方がいいでしょ」
「いいですよ。念のために絢が持っていてください」
「…そう? そういうなら…」
 だいたい絢のビー玉は初羽にはうまく使いこなせない。
 それなら万が一のために絢が持っておくのも一つの手だ。
「…それで、勝算はあるんですか?」
「いちおうは」
 初羽はそういうが実のところ勝算なんてない。
 仮にこの場に小春がいなかったとしても勝てる可能性はかなり低い。
 初羽も絢も大型の化物相手なんてしたことがない。
 初羽の能力は大型の化物相手にするには不利なのは明白だし、絢の魔術もそれほど高威力の魔術を扱うには適してない。そもそもが百均で売っているビー玉だ。
 そうなるとメイだけが頼りになるのだが、先ほどからアロー系の魔法しか使っていないところを見るとそれも大型の化物相手にはあまり向いてない。
 普通の生物なら心臓などの急所を狙うだけで済むが、こういった魔法生物の手合いはそうはいかない。全身が魔力で構成されているため弱点といった概念がないからだ。
 だから通常こういった大型の化物を相手にするには長い得物を使うか、高威力広範囲の魔法を使うのが良策だ。
「メイがさっき使っていた矢を爆発させる魔法がありましたよね」
「…はい。ありますが」
「私が魔物を惹きつけつつメイがその魔法で少しずつでもダメージを与えていく方法しかないと思います」
「そ、そんな作戦で大丈夫なんですか?」
 正直に言うと初羽も絶対に大丈夫とは言い切れない。
 だけど絢の力を期待できない以上この作戦しかない。
「他の魔法が使えれば使ってくれていいですから」
「…わかりました」
 だから後はメイの魔法に期待するしかない。
 本当ならどんな魔法を使えるか全て聴いた上で作戦を立てたいところだったがそこまではピエロも待ってくれないだろう。
 それに魔法使いは秘密主義者が多いので聴いたところで教えてもらえるとは限らない。…初羽になら教えてくれそうな気もするが。
「そろそろ始めてもいいかい?」
 ピエロが頃合いとみたか声をかけてくる。
「絢と小春は物陰に隠れていてくださいね」
「分かった。…気をつけてね、初」
「分かってます。こんなところで死ぬつもりはないですよ」
「…初、来る!」
「それじゃあゲームスタートだ。せいぜい頑張ってくれよ? ボクは観客として眺めていることにするからサ」
 ピエロが指を鳴らすとその姿はかき消える。
 だが馬の化物はその場に残ったままだった。
 蹄で地面を叩き、初羽たちの方を向いている。
 絢と小春は既に廃墟から抜け出し姿をくらましている。身体能力を向上させているだけあってその行動は実に機敏であった。
 場に残るは初羽とメイ。
 黒馬が二人に向かって突進する。
 廃墟内であるため、その動きは突進するというよりも一歩前に踏み出すという表現の方が正しいかもしれない。
 初羽が左側に、メイが右側に跳ぶ。
「ッ!」
 が、初羽の表情が陰る。
 瞬間に跳んだつもりだったが実は反応が一瞬遅れ風圧で壁にぶつかっていた。
 幸い、初羽もクロのおかげで身体能力は上がっていたので怪我はしていない。
 そしてメイは跳び退く際に火の矢を三本黒馬に放っていた。
「バースト!」
 黒馬に突き刺さった三本の矢が爆発する。が、致命傷を与えるには至ってない。
 それどころか爆発した煙で視界は悪くなり、黒馬が暴れるせいで廃墟が崩れ瓦礫が初羽とメイの頭上に降りかかってくる。
 メイは内心、…しまったと思っていた。
 初羽とメイはとりあえずこの場から撤退する。
 二人が撤退した先は見晴らしの良い、草原エリア。
 相手の巨体が活かしやすい場所ではあるが、あれほどの大きさであれば入り組んだ場所で戦う方が危ない。
「クロ、少し制限(リミッター)解除できますか?」
 先ほどの経験から初羽はクロのコンファインを強める。
 そして黒馬が廃墟から初羽たちに向かってくるのが見えた。
 と、黒馬が初羽たちの居た場所を駆け抜ける。それは一瞬だった。
 その一瞬の間に初羽は今度は無事に避け、メイも難なく避ける。そして黒馬が初羽たちが元居た場所を駆け抜け交錯する瞬間に五本の火の矢を黒馬に放っていた。
「バースト!」
 再び黒馬が爆発に巻き込まれる。
 瞬間、黒馬が煙の中からメイの方に突進してくる。
「ッ!」
 メイが横っ跳びに避ける。風圧のせいでそのまま転がり吹っ飛んでいくのが初羽からも見えた。
「メイ!」
 おそらく大事には至っていないだろう。黒馬の意識が再び初羽に向いているのも幸いだった。
 しかし、黒馬の様子を見るにダメージなど一つも負っていないように見える。黒馬の体が隠れるほどの爆発に巻き込まれたにも関わらずだ。
「これでレプリカですか…」
 本当にレプリカなのか疑いたくなるほどの強さだ。もっとも、あのピエロのことだから実際には本物よりも強く作ってあるのかもしれない。いかにもピエロがやりそうなことだが本当のところは分からずじまいだ。
 それよりも攻撃が全く通用していないことの方が問題だった。
「どうしたものでしょうか…」
 そう考えている間にも黒馬は初羽に向かって突進してくる。
「もう…ッ!」
 初羽は避けることはせずあえて跳び、黒馬の頭を思いっきり蹴り飛ばす。
 黒馬は特に気にした様子はなかった。
 が、初羽は蹴った勢いで馬の右側に降り、再び跳びあがって背中を蹴り、今度は左側に降りる。
 再び跳びあがり首を蹴って馬の前方へ、跳び頭を蹴って後方へ、跳び尻を蹴って背中に乗り、腹を蹴って左側に降りる。
 頭、首、背中、腹、尻、前脚、後脚、尾。前方、後方、左、右、背中に乗り、腹を掻い潜って電撃戦を仕掛ける。
 黒馬にダメージは通っていないように見えるが、その素早さに黒馬は翻弄され、脚をばたつかせながら初羽を振り払おうとする。
 初羽は黒馬の動きに注意しながらも攻撃の手を止めない。
 それが黒馬をその場に止めていた。
 そしてそれが初羽の狙いだった。
「詠唱省略、アイスアロー!」
 遠くから矢が四本飛んでくる。そしてそれらは黒馬の脚に突き刺さった。
「フリーズ!」
 矢の周囲が一瞬で凍る。
 黒馬は氷によって地面に括り付けられた脚を解くことが出来ずもがいていた。
 初羽は既に黒馬から離れメイの横に着地していた。
「詠唱省略、ファイアアロー」
 メイが五本の矢を黒馬に放つ。
 だがこれだけでは倒せないのは既に分かっている。
「詠唱省略、ファイアアロー」
 だから更に矢を黒馬に放つ。これで黒馬に突き刺さっている矢は十本。
「詠唱省略、ファイアアロー」
 更に五本の矢を黒馬に放つ。これで黒馬に突き刺さっている矢は十五本。
 黒馬の脚の氷に罅が入る。
「詠唱省略、ファイアアロー」
 追加で五本の矢を黒馬に放ち、合計で二十本の矢が黒馬に刺さる。
 氷が砕け黒馬が氷の呪縛から解き放たれる。
「バースト!!」
 辺りが轟音と衝撃に包まれる。今までの爆発とは桁違いの威力だった。もしかしたら地面が抉れているかもしれない。
 遠目だったが、黒馬が爆発の威力によろめいたのが煙で隠れる前に見えていた。
 時間をかけて、やがて煙が晴れて黒馬の姿が見えてくる。
 体のところどころから煙が出ておりダメージを負っているのは分かったが致命傷を与えるには至っていなかった。
 その上、見た感じこの程度のダメージでは黒馬を倒すには全然威力が足りない。
「アハハ! なかなかに頑張ったけど残念だったねえ」
 ピエロの声が初羽とメイの耳に届く。
「でも、無傷ではないですよね」
 初羽が皮肉を言う。
「そうだねえ。確かに無傷とはいかなかったみたいだね。だ・け・ど」
 黒馬の体から出ていた煙が消える。それはさっき与えたダメージが回復したかのように見えた。
「コレは自身で回復する力も持っているんだ。さっき程度の攻撃では何度やっても回復されてしまうのが関の山サ」
「…全くもって厄介なものを作ってくれたもんです」
 メイも皮肉を言う。
「大丈夫。キミたちならきっと倒せるよ」
「どう考えてもゲームバランスが崩壊しています」
「倒せなきゃキミたちが死ぬだけサ。ボクを失望させてくれないでくれよ?」
「むしろ失望させたいですね」
 黒馬が頭を振り嘶く。
 明らかにさっきの攻撃を怒っているようだった。
「詠唱省略、ファイアアロー」
 メイが矢を放つ。
 しかしその矢は黒馬の前脚によって全て叩き落とされる。
 何度も攻撃を受けて矢の速度に対応するようになってきたようだった。
「…ち」
 メイが舌打ちをする。
 今までは確実に通っていた矢による攻撃も使いどころを考える必要が出てきてしまった。
 初羽は攻撃の手段が減ったことに進退窮まってきたのを感じていた。
「仕方、ないですね…」
 実を言うと初羽にはまだ使える手段が残っていた。
 それは出来れば使いたくなかった手段でもあるがこの際仕方がない。
 黒馬はあの威力の魔法を直撃して倒せない上に回復能力まで持っている。
 こうなったら多少無理をする必要性があった。
「メイ、あの黒馬の注意をしばらく惹き付けてもらえますか?」
「…分かりました」
 メイが初羽とは逆方向に跳ぶ。
「詠唱省略、ファイアアロー」
 メイが跳びながら矢を放つ。
 再び全て叩き落されてしまうが黒馬の注意はメイに向いていた。
 メイの役割は無事果たされていた。
「詠唱省略」
 だが、メイはそれだけでは終わらなかった。
 黒馬が前脚で矢を叩き落すタイミングを計り、次の矢を放つ。
「アイスアロー!」
 八本の矢が黒馬の後脚、降ろされた前脚に刺さる。
「フリーズ!」
 再び黒馬の脚が氷で地面に縛り付けられる。
 だが今度のは威力が先程の倍である。
 一脚二本の矢が刺さった脚に張った氷は先程の倍の広さと厚さだった。
 現に黒馬は頭を振っているが、なかなか動けないようだった。
 その時間は初羽にとって十分なものであった。
 初羽は集中して自らの制限(リミッター)を外していく。
 外すだけではない。クロと同調しイメージを形作っていく。
「いくよクロ! クリエイション!」
 初羽の右手に魔力が集まる。
 それは30センチはあるであろう爪を形作っていく。
 初羽の持つコンファインとは別の能力、クリエイション。
 初羽が『創造の能力』と名付けたそれは、コンファインで同化している相手の特徴を際立たせ顕現させる能力だ。
 それは猫の爪や、鳥の羽などあるものを創造させることが多い。
 クロは猫であるからその特徴でもある爪を創造することが出来る。
 だが実際には初羽の意志によるところも大きく、爪以外にも創造することは出来る。
 ただ猫とコンファインしていれば鳥の羽を創造することは出来ないし、鳥とコンファインしていれば猫の爪を形成することは出来ない。
 それらはその生物の特徴ではないからだ。
 創造できるのはあくまでその生物が持っている特徴だけ。
 この能力はコンファインと並行して使うものだが別の能力でもある。
 初羽はいわゆる二つの能力、デュアルスキルを持っている能力者である。
 もちろん二つの能力を行使するようなことをすればその負担も並大抵のものじゃない。
 その上クリエイションを使うということは必然的にコンファインの精度も高めるということだ。
 そんな能力の使い方をすれば初羽特有の発作を起こすことは確実だ。
 だけど初羽には今この能力がどうしても必要だった。
「いきます!」
 初羽が黒馬に向かって跳ぶ。
 その脚力は先程までの比ではなかった。
 あっという間に黒馬の元に届く。
 腹を切り裂く。
 次に首を切り裂く。
 頭を切り裂く。首を切り裂く。腹を切り裂く。
 地面に着くと同時にコンマ置かず再び跳び上がり攻撃を仕掛けるそのスピードは初羽が地面に着地しているのかどうか疑わせるほどであった。まるで空中戦を仕掛けているかのように見える。
 小春みたいな普通の人が見たらあまりの早さに初羽が空中にずっと居るように見えるだろう。
 何度も切り裂いていく内に首が切れる。
 激痛のために(魔物に痛みという概念があるのか分からないが)暴れた黒馬がメイの氷の呪縛から脱出し、一目散に草原を駆け抜けていく。
 だが首の無くなった黒馬はすぐに草原に倒れることになる。
 全速力の黒馬よりもクリエイションにより身体能力も強化されていた初羽の方が速かったからだ。
 最初の一っ跳びで左後脚を、次に右前脚を切り裂いた。
 その時点で黒馬はバランスを失い草原に横倒れになった。
 それでも初羽は黒馬を切り裂いていく。
 切り裂いて切り裂いて切り裂いて切り裂いて切り裂く。
 その速度は黒馬の回復速度を上回り黒馬を追い詰めていく。
 やがて黒馬の姿が原型を留めないほどに切り裂かれその姿は砂のように消え去っていった。
「初!」
 初羽の元にメイが追いつく。
 それと同時にどこかから拍手が聴こえてきた。
 ピエロが再び姿を現していた。
「エックセレント! 見事だね、実に見事だったよ! あの化物を本当に倒すなんてね! やっぱりボクの目に狂いはなかった! キミはボクのストーリーの主人公に最高だよ!」
「………」
 初羽はピエロを睨む。
「そんなに睨まないでほしいなぁ。今日は挨拶と言っただろう? ボクとキミの物語はこれからサ。それまでにせいぜい腕を上げてボク好みのキャストになっていてくれよ? メイも同様に、ネ。アハ、アハハ、アハハハハハハッ!!」
 ピエロの姿が笑い声と共に消え去る。
 あたりは来た時と変わらない静かな草原だけが残った。
 廃墟の方から絢と小春が駆けつけてくる。
 それを見て、初羽は意識を失った。





 初羽が目を覚ましたのは数時間経った夜の八時だった。
 寮から最初に転移してきた絢の別荘のリビングのソファに寝かされていた。
 頭には濡れタオルが置かれていて気持ちいい。
「気が付いた?」
 反対側のソファに座って本を読んでいた絢が声をかけてくる。
 今までずっと看病していてくれていたのだろう。
「すみません…ずっと看病してもらってしまったみたいで…」
「気にすることないわよ。むしろこっちこそごめん。初にこんな無茶させてしまって…」
「なら…お互い様です…」
「そうね。お互い様だわ」
「あ、初さん! 起きたんですか?!」
「…おはよう」
 小春とメイも初羽が起きたことに気付く。
 小春は台所に居たらしくティーカップを三つ運んできた。
 メイは少し離れたところでクロの背を撫で続けている。
 初羽はソファから身体を起こす。
「心配かけてすみません…」
「…気にしない」
「そうですよ。心配ぐらいさせてください」
 小春が初羽と絢、メイにカップを渡す。中身は紅茶だった。
「小春に礼を言ってあげて。初が倒れてからずっと看病してくれていたのは小春なんだから」
「そうなんですか? ありがとうございます小春さん」
「い、いえいえそんな! 小春は別に…」
 小春は謙遜するが、ずっと初羽を看病していたのは本当だった。
 魔導書内で倒れた初羽を背負ってきたのも小春だし、それから濡れタオルを置いたり、汗を掻いた身体を拭いたのも小春だ。
 その手際は絢やメイの目から見てもよかった。
「最初はびっくりしたんですよ。初さん、とても苦しそうでしたから」
 やっぱり、と初羽は思った。
 クリエイションの能力を使うほどに魔力を使えば発作が起きるのは目に見えていた。
 そのまま意識も失ったのはある意味幸いだったのかもしれない。
「そうそう、初、あの薬勝手に使わせてもらったわよ」
「構いませんよ。ありがとうございます」
「そういえばあの薬ってなんですか?」
 小春が疑問を抱く。
 絢が草原で気を失った初羽にまず最初にしたのがその薬を飲ませることだった。
「あの薬は初羽の発作を抑える唯一のものなのよ。私には分からないけど高度な術式が組み込まれているらしいわ」
「術式が組み込まれている薬ですか?」
「もちろん市販のものじゃないわ。というか作り方は本人しか知らないでしょうね」
「は、はあ…」
「また新しいのを貰わないといけないですね…」
 初羽は今夜あたりメールでもしてお願いしようと思っていた。
 いや、それより電話の方がいいだろうか。
「さて、それじゃあ夕飯でも食べに行きましょうか。お腹空いたでしょ」
 絢が場の雰囲気を切り替えるように提案する。
「そうですね…」
 初羽も絢の気遣いが分かっているからそれに乗る。
「ファミレスでいいわよね」
「小春はそれでいいです」
「…異論はない」
「それじゃあ皆で行きましょうか」
 初羽たちは魔法陣に乗り、再び寮に帰る。
 長い一日はようやく終わりを迎えたのだった。



~Interlude 香坂初羽~
 その夜、私はある昔馴染に電話をかけていた。
『はいはーい、西陽学園自由部部長萩原百でーす』
「百は部長じゃないし副部長ですらないじゃないですか」
『どうでもいいけど漢字が六文字以上並ぶと読み辛いと思わない?』
「これは電話ですよね」
『これがいわゆるメタ発言?』
「もう…」
 私の親友の百。
 長い付き合いがあって、私のことをほとんど全て知っている、私の理解者。
 私の恋話を一から十まで全部知っているのは私以外には百だけで、絢ですら全部を話したことはないです。
 百は私や絢と同じ海西学園には通っておらず、西陽学園というところに通っているらしい。
 らしいというのは百のことは私もよく分からないからです。
 分かっているのは、百もなにかしら魔法に関わりがあるということぐらい。
 そしてオタクで自由奔放でいろいろと危険なことを試そうとする。
 いつもはいい加減な感じで、隠し事をする癖があるので煙に巻かれていると感じることも多い。その態度のせいで人を馬鹿にしてると見られがちである。
 ただ本当には百ほど誠実で頼りになる人もいない。私はそう思います。
『で、初羽が電話をかけてくるなんて珍しいじゃん。なにかあった? あった?』
「百、隠し事はよくないですよ。私がなんで電話をかけたか分かってるんじゃないですか?」
『なんとなくわー』
「いくつか訊きたいことはありますけど、百。ピエロが現れること知っていたんじゃないですか」
 一つの確信。
 今日、廃墟でメイと二人で会話した時にメイは百に魔導書の在処を聴いたと言っていました。
 だけどメイの様子は魔導書に興味があるという感じではありませんでした。
 それにピエロが現れた時のメイの台詞も気になりました。
(…やっぱり、ここに現れると思いました)
 それはピエロが魔導書内に現れることをある程度確信しているからこそ言える言葉です。
 百は過去の事件からピエロのことを知っています。
 それだけではピエロの出現を知っていたと言い切るには弱いが、百は私でも知らないネットワークを持っているから知っていなかったとも言い切れません。
「どうなんです?」
『んー、誤解のないように言っておくけどピエロがこのタイミングで現れることは私にも分からなかったよ』
「じゃあどこまで知っていたんです」
『ピエロが初のこと執拗に狙っていたからいつかまた初に会いに現れるだろうってことは思ってたよ。で、それをピエロを追っているメイに教えた』
「私の居場所をですか?」
『そそ』
 ということはメイが言っていた、ここというのは私のことを指していたんでしょうか。
 いや、メイは魔導書のことを百から聴いたと言っていました。
 だとすると私という存在はただの偶然で本命は魔導書なのでは…?
「百、ピエロとあの魔導書の関連について知っていることはありませんか?」
『ん? どういう意味?』
「じゃあ質問を変えます。メイとピエロの因縁はどれくらいなんですか?」
『それは期間ってこと? それならもう何年もの因縁らしいよ』
 やっぱり思った通り。
「それならメイが私の居場所を最初から捜していたとは思えません。以前は私とピエロに関係はないですから。ならメイは他にピエロを追うための目印みたいなものを持っていたはずです」
 そこまで言って一つの想像に辿り着く。
「ピエロは…魔導書を使ってなにか企んでますね?」
『それは私に聴いても答えられないなあー』
「メイはそのあたりのこと知ってるんでしょうか…」
『知ってるんじゃない? メイもピエロの被害者なんだろうしそこからなんらかの手掛かりを得てたのかも』
「あ…」
 そう言われればメイも私と同じピエロの被害者である可能性は高かった。
 ということはメイも辛い目にあってきたということで…。
『…ピエロとメイの因縁について調べとく?』
 私の考えていることを察したのだろう。だけど…
「…いえ、別にいいです」
 人の隠している事を探るのは気が進まない。
 それに誰にだって踏み込まれたくない領域というのはある。
 私にとってのそれであるようにメイも…。
『それより今日は元気ないねー。どしたの? 聴いたげるから言ってみ? 電話してきたのも本当はそれが理由でしょ』
 やっぱり百はなんでも察してしまう。
 本当は百と少し話がしたかっただけ。
 信哉のことを知っている人と話をしたかっただけ…。
 私は今日の出来事を子細洩らさずに百に話した。
『そっかそっかー。そんなことがあったんだ』
 百は私の話を特に深くは受け止めていないようだった。
 その方がありがたいかも。
 あんまり深刻に受け取ってもらって気を遣わせてもなんですし。
『しっかし物語の主人公を探している、ねぇ…。普通だったら自分が主人公をやりたがるもんだと思うんだけどなあ』
「百はいかにも自分が主人公って思っている感じですよね」
『もっちろん! 自分の人生、自分が主人公!』
「百らしいです」
『初はそう思ってないみたいだね?』
「…私は絢の方が主人公にふさわしいと思います」
『あははー、そうだね。優しくて、正義感が強くて、素直でみんなに好かれて。その点で言うと初は逆だよね。優しいところはあるけど正義感ぶったりはしないし捻くれてるし』
「人のこと馬鹿にしてませんか?」
『してないってー! いいじゃない。主人公じゃなくても。初は主人公になりたいわけじゃないでしょ?』
「それはまぁ…」
 確かに私は主人公になんてなりたくない。
 ただ、私を好いてくれる人がいてくれればそれでいい。
「…………」
 黙ってしまう。
 だって…私を一番に好きでいてくれた人は……。
『…思い出しちゃう?』
「…あたりまえです」
 楽しいこと、辛いこと、悲しいこと、戸惑い、喜び、呆れ、恋、愛。
 どうしてこんな話になったんだろう。
 やっぱり…ピエロに出会ってしまったことが堪えたんでしょうね…。
 だって、あいつが信哉を…。
『それでも忘れられる想い出じゃないでしょ。嬉しいことだってあったでしょ。だから、信じ続けられるんでしょ?』
「…きっと、何一つ信じられるものがなくても。それでも、私は信じ続けるんでしょうね。いえ、信じ続けるに決まってます。信じ続けてしまうんです。…私って、馬鹿だから。どうしようもないくらい馬鹿だから…」
『それでいいんだよ。人は人らしく生きるから人間で居られるんだよ。本能的でなくていい。でも思うままなんでもしていいわけじゃない。理屈っぽくなくていい。でも全てを計算して行動しなければいけないわけじゃない。自分に素直になれなくて、嘘をついて、そんな自分が嫌いになって。それが人間だもん。だから、人間で居られるんだもん』
 こんな私に、それでも誠実に応えてくれる百は、本当に得難い私の親友だって、心からそう思います。
 全てを分かってくれていて理解してくれる誰かが居るっていうのは本当に心の支えになります。私が欲しいのは上辺の優しさじゃないから。
 …うん。やっぱり百に電話してよかったです。
「ありがとうございます、百」
 だからお礼。
 私から百に感謝を込めて。
『いいよいいよ。私には他に手伝えることがないからね。話を聴くぐらいはしなきゃ』
 そんなこと言っているけど百には何度も助けられている。
 情報提供に関してもそうだし、あの薬だって。
「あ、そうでした。百、あの薬送ってもらえませんか? 今日ので残り少しになってしまったので」
『ピエロとはまだ戦うつもりなんだね』
 そんなの決まっています。
「私はあいつを許せませんから」
『そっか。了解! 他にもなんか力になれないかやってみるよ』
「よろしくお願いします」
『じゃ、お休みー』
「はい、おやす…」
 既に電話は切れていた。
 まさに『自由の体現者』って感じだ。
 とりあえず今日はもう寝ましょう。
 思ったより長電話になってしまいましたし。
 では、お休みなさい。
~End Interlude~



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